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どうしてもストーリーやテーマやスター至上主義で映画に接しようとする傾向は強いけれど、映画とはまず、エモーションを映像に写し取るメディアだ。この作品で最も魅力的なのは、1665年オランダの空気をカメラと美術と役者の表情によってすくい取ろうとする試みである。衣装や小道具だけ再現し、実質的には現代的な物語のために過去を借りただけというケースは多いが、身勝手に現代的な解釈を施した過去ではない。フェルメールが残した神秘的な一枚の絵画の成り立ちに想像力をめぐらせるこのフィクションに、強い物語などはない。ただ、画家として生計を立てるフェルメールとその家族と、彼の絵を買い上げるパトロンと、そして家計を支えるためにフェルメールの家へ奉公に出た少女ら、階級差が明確だった時代の空気だけが存在する。彼らの生活を描き分けた、ろうそくの灯火と太陽の光だけを基調とする、厳かな撮影が素晴らしい。自然光が、芸術と経済の狭間で揺れ動く、崇高な魂と打算的な輩とを判別してしまうのだ。華美に着飾った者たちは金銭欲と性欲しか頭にない下卑た人間に映る。見てくれに気を使わない画家と少女は一瞬にして心が通い合った。芸術を愛する魂を媒介にして。創作を神聖なものとして崇める精神が画面から立ち上ってくる。少女は恐れを抱きながら、画家の前に内面をさらけ出す覚悟をする。同時期に人工的な東京の街で自分を探す姿を自然体で演じたヨハンスンが、対照的に、中世の光のなかで体をこわばらせながら表現する処女性に幻惑される。極めつきは最後まで拒んでいた真珠の耳飾りをつけることを許容する場面。仕上がり前の絵を見て、彼女は自ら真珠の輝きが必要であると判断し、画家によって耳たぶに穴を開けられ、血がにじむ。それが何を表すかは言わずもがなであろう。フェルメールが画布に封じ込めた一瞬のきらめきを得るまでの数カ月にわたる時の流れを100分間のフィルムに焼き付けたのが本作だ。ミステリアスであれとばかりに饒舌な音楽と、やや間合いを計り損ねた演出テンポが、名画についた唯一の瑕として惜しまれる。 (清水節)
[ 2004年5月11日更新 ]
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