5.0点
ネタバレ「引き裂かれた心」
新任司令官のサーズデイ中佐は、そうとう偏屈だ。 娘のフィラデルフィアのほうが、よほど柔軟でかしこそうだ。 彼は、南北戦争での評価が低く、戦後の陸軍省の辞令で、アリゾナのアパッチ砦にとばされる。 不満にはちがいないが、本人も半ば自覚していそうなところが、おもしろい。 砦でも、頑固一徹、周りに耳を貸さない。インディアンを人間とも思わない、典型的な征服者中心主義者だ。 結局、誤った判断と指示を重ね、無謀な突撃を敢行して、多くの部下を無駄死にさせる。本人もあえなく戦死してしまう。 中佐は、南北戦争~西部開拓時代の、無能な指揮官の、ひとつの典型例なのだと思う。 ところが、フォード監督は、その無能さをあからさまに描きながら、監督自身は、サーズデイ中佐を、必ずしも冷たく突き放した目で見ていない。 サーズデイ中佐を叩けば、話は簡単になる。 節操のない監督なら、頑迷固陋ななサーズデイ中佐に対する、インディアンにも理解のある、正義の指揮官ヨーク大尉という、典型的な勧善懲悪パターンを採用するだろう。 しかし、フォード監督は、あえてわかりやすさを犠牲にしても、そうした虚偽を排したのだと思う。 サーズデイ中佐は、確かに頑迷だ。彼のせいで、多くの部下が死んだ。それは、映画に描かれたとおりだ。インディアンに対しても、露骨な差別意識を隠さない。 だが、けっして悪意の人間ではない。頭が固いだけで、他人の足をすくうような、ずるい人ではない。 そのサーズデイ中佐に、ヨーク大尉が対置される。ふつうなら圧倒的なヒーローを演じてもおかしくない人物だ。 彼は、サーズデイが着任するまでは、アパッチ砦の指揮官だった。階級が上の将校が来れば、自動的に二番手の立場になる。一種の降格だ。 ヨーク大尉は、それでくさるわけでもない。現地の事情に精通し、インディアンとの交流もある大尉は、新任司令官をできるだけ補佐しようとする。 ところが、頑迷な中佐は、自分のやり方に固執して、まったく耳を貸さない。 仕方がないので、大尉は、一歩引いて静観する格好になる。けっして反発したりしない。 こうしたヨーク大尉の対応は、不甲斐ないとか煮え切らないとか見られても、仕方がない面がある。 しかし、それを十分承知で、大尉は、たとえ誤りであっても上官の指示に従い、軍規に忠実に振る舞う。 ヨーク大尉は、カリスマ的な英雄ではなく、一種の賢者のような描き方がされている。 前のレビューで、northhh35さんが「ジョン・ウェインの妙な諦観が気になる作品」と書かれている。この映画をどう考えたらいいのかと迷っていたとき、それを見て、ああそうか、と思った。(northhh35さん、参考になるレビュー、いつもありがとうございます) ヨーク大尉を、英雄ではなく賢者にしているのは、まさに一種の「諦観」だと思う。 フォード監督は、作品を楽しく見てもらいたい一方で、英雄物語ではなく、どんなに愚かしく腹立たしくても、フロンティアの現実を描きたかったのだと思う。 ヨーク大尉は、インディアン攻撃がその戦法も含めて誤りだとわかっていても、サーズデイ司令官の指示に従う。 結果として、敵の術中にはまり、多くの騎兵が戦死する。 息子の結婚を喜び、退官を間近に控えていた、古参のオルーク軍曹も死んだ。 そして、サーズデイ中佐も、おのれの愚かさを噛みしめながら、死んだ。 後任の指揮官に復帰したヨーク大尉は、サーズデイ中佐の失態を伏せ、勇猛な指揮官ぶりを上層部へ報告する。 本来なら、サーズデイ中佐は、無能な指揮官として、激しい糾弾にさらされてもおかしくない。 しかし、ヨーク大尉は、むしろ中佐に好意的だ。それは、同情とは少し違う。 ヨーク大尉の報告は、事実としては、虚偽である。 しかし、大尉は、ウソを報告したとは思っていないだろう。 なぜだろうか。 それは、インディアン対騎兵隊という、前線の指揮官にとっては、ほとんど絶対的な関係の構図そのものに起因していると思う。 ヨーク大尉は、自分と中佐では、はた目に見えるほど違ってはいないと考えているのではないか。指揮官として有能か無能かということは、彼の中では大きな意味を持っていない。 先住民に対する抑圧者の急先鋒だという点では、自分も同じだ。 それは、善意や配慮の問題を越えている。 サーズデイ中佐は、失態を自覚しつつ、おのれの責務を全うして、果てた。 それで、十分だ。 指揮官室に架かったサーズデイ中佐の肖像は、虚像ではないし、皮肉で架かっているのではない。 サ「何か質問はあるかね?」 ヨ「ありません」