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女優フランシス (1982)

FRANCES

監督
グレーム・クリフォード
  • みたいムービー 20
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4.67 / 評価:23件

Frances as an independent soul

  • republicofkyushu さん
  • 2015年5月1日 2時25分
  • 閲覧数 268
  • 役立ち度 2
    • 総合評価
    • ★★★★★

フランシス・ファーマーは「闘い」をやめなかった。ただ、あまりにも生き急ぎすぎた。

フランシスは何と闘ってきたのか。「自分」であることにこだわりつづけ、「自分」であるために闘ってきたのだと思う。

映画会社、劇団、精神療養所、精神病院は言うにおよばず、母親さえもが「自分」を押しつぶすものだった。

ただ、おおかたの人びとがそうであるように、そうしたものを受け入れてしまい(そつなく状況に適応し)、「上手」に生きていくことはいくらでもできたのかもしれない。むしろ、そうした生き方の方がある意味では楽であったかもしれないし、世間的な意味での「幸福」を手に入れることもできたにちがいない。それでもフランシスは「闘い」をやめなかった。

人生のあらゆる局面で「自分」であろうとしつづけることは困難なことであり、不可能なことでもあり、ある意味では無意味なことであり、不必要なことであるのかもしれない。だとするならば、「自分」であろうとして「闘う」ことにどんな意味があるのか。

「自分」に執着するということは、「孤独」であるということを強烈に意識させられることと同義であるにちがいない。「孤独」から逃げ出したりしないで、あるいは「孤独」をごまかしたりしないで、「孤独」と真正面から向き合うこと。「自分」にこだわり「自分」と向き合うということは、おそらくそういうことなのだ。

Frances died as she had lived ... alone.

「自分」であろうとして闘ってきたフランシスは、あまりにも生き急ぎすぎた。だから、最後のシーンで彼女は、

「これからはゆっくり行くわ」

という言葉を口にしたのだと思う。

「でも、途中でやめたりしないの…」

Harry was not with her when she died on August 1, 1970, at the age of 56.

ハリーの手を振りほどいて、「家まで送って」と頼まなかったとき、フランシスは、「ゆっくり」であっても「途中でやめない闘い」を選んだにちがいない。

「自分」であろうとして闘うこと…?

「自分」が何であるのかを知ることさえ易しいことではない。しかし、「自分」が何であるのかを知ろうとして、安易に状況に妥協することなく、自分をごまかすこともなく、もがき苦しむこともまた「自分」であろうとして「闘う」ことなのかもしれない。

不安や肉体の誘惑から自由になることは難しいし、「孤独」と真正面から向き合うことも易しいことではない。

「自分」であるための「闘い」とは、不安や肉体の誘惑に支配されず、「孤独」と真正面から向き合う、ということと同義であり、「自分」をごまかすことなく、「自分」から眼をそらすことなく、「自分」と真っ正直に向き合うということなのだ。

本当の意味での「共感」とは、この「孤独」な「闘い」に勝つことができた人たちのみが感じることができるものなのだろう。

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物語
配役
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  • 泣ける
  • 勇敢
  • 知的
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