モデラート・カンタービレ
- bar***** さん
- 2018年9月4日 14時18分
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雨のしのび逢い。マルグリット・デュラス原作の『モデラート・カンタービレ』が原題。
デュラス本人が脚本を担当したという話ですが、私にはとうてい魅力的だとは感じられませんでした。工場主や資産家といった「成り上がり」が文学の世界で嫌われていて、そこに純情な美しい妻が「生きる目的=真の恋愛」というのを求める、というのはやり尽くされたネタです(フランス文学で)。
語られ方もどこか青くさいロマンティシズムから脱してはおらず、あの時代らしい洗練された演出は見られるものの、全体的なクオリティの話をすると、決して感心すべきものではないと思います。
やはり先述したとおり、「語り尽くされたネタ」というのが最も悪いポイントだと思います。フランス文学ではこういう話がいろいろと出てきます。資産家の旦那=金にがめつく美的センスのかけらもない野人=恋愛対象にならない、というのが定式として決まっており、フランス文学ではマダムは結婚という枠組みにとらわれずに様々な男と恋愛します。夫=金や地位を保証してくれる存在、形式的な相手。恋人=真の恋愛相手、というのがお決まり中のお決まりで、不倫の話が盛り上がってこんなロマンティックで悲劇的な内容になるのも変わり種どころかドストレートなやり口なわけです。
ベルモンドが身を引く知性的な相手になっているのがこの作品のオリジナルなところですが、ベルモンドは終始機械的に動いており、彼にキャラクター性というものがあったのかと不思議になるほどです。ベルモンドにキャラクター性は存在せず、これはただの舞台要素としての性格が強いのです。
キャラクター性があるのは、モロー演じるアンヌだけで、彼女の悲劇性こそがこの作品の中心点なのですが、そのどれも作られた感と、誇大に演出された内容の薄さとで、だんだん不安になってきます。まさか、本当にこれで終わりなんだろうか? と。どれもこれも内容の薄いのを、ロマンティシズムで濃く見せているだけなんです。
もう少し突っ込んだ文学的な内容であって欲しかった。これは移ろいやすい「恋愛」というものをベースにして、そこに人間学的なものの一端をぶち込んでいるだけなので、非常に矮小なんです。
子どものピアノレッスンのシーンや、そもそも「子ども」という存在の作品的意味も不明ですし、その分なぜもっとベルモンドにキャラクター性をもたせて複雑なシナリオに展開させていかなかったのかと不思議に思います。おそらくこれはシンプルに「情感の深さ」を語りたかっただけで(その情感を語ることしか念頭になかった)、そのためにこんな長大なストーリーを用意した(つまりその他の様々な存在は小物に過ぎなかった)というのが正しいのではないかと思います。
情感というものを作品を構成する要素としては考えず、それをメインに据えてしまうのはよくある作家の平凡なミスであり、わがままです。
それを全体的に表現しようとしても上手く伝わることは決してなく(そもそも情感というものはメッセージになり得ない、極めて曖昧なものです)、それを材料として何かもっと高等なことを表現するときに、それらが各所で輝いてくるものなのです。
映画としてはきちんとした役者を使っていますし、映画的効果もきちんと考えられていて、しっとりとした悪くない映画になっていると思います。カメラワークや演出も美しく、語られている内容さえ平凡じゃなかったら素晴らしかったのにな、と思えて残念でなりません。
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- ロマンチック