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生きものの記録

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5.0

中島老人を”被害妄想”と笑えるのか?

私は以前、ハリウッド映画「トータル・フィアーズ」のレビューで「この映画は核兵器の恐ろしさを軽視して描いており日本人として強く抗議すべきだ」とのレビューを投稿しました。この「トータル・フィアーズ」以外の作品でもハリウッド映画の中には核兵器の現実を全く勘違いして描いているものが多く見られ、被爆を体験した日本人以外の人達があまり真剣に被爆の実態について学んでいない事に戦慄を感じる事があります。 特にインドやパキスタンで核実験が行われた際に普通の市民達までもが実験成功を喜ぶ映像をテレビで見たときには、もし印パ戦争が勃発したら本当に核兵器が使用されるかもしれないと強く懸念しました。   ところで「トータル・フィアーズ」と全く対極の視点にある核兵器をテーマにした映画を今から50年以上も前に黒澤監督が撮っています。それが「生きものの記録」です。 数ある黒澤映画の中では比較的知名度の低い作品であり、あまり話題に上る事も少ない映画なのですが核兵器とそれに脅える一人の老人を描いた日本映画史に残る秀作です。 東京の下町で零細の鉄工所を営む中島老人(三船敏郎)は極端に核兵器を恐れ近親者全員を引き連れ南米ブラジルに移住しようと計画します。 しかし、彼を"被害妄想”と決め付ける息子や彼らの嫁達は南米移住に全財産を投入しようとする中島老人の計画をやめさせる為に裁判所に中島老人の準禁治産者の申請を行います。 映画前半では核兵器に対して極端な恐怖心を持つ中島老人の考え方は明らかに極度の被害妄想に思えるのです。幾らなんでも南米移住の為に全財産を投入するというのは常識の範疇を超えており息子達が「私たちは今でも結構幸せなんです。それを父の被害妄想の為に全財産を使われたら私たちの日常生活は一体どうなってしまうんです?」と裁判所に訴えった事が通常の社会通念として正しと思えます。。 もし自分が息子達の立場であれば恐らく同じ行動に出ただろう思います。 核兵器の恐怖が現実にあったとしても、それは一個人ではどうする事も出来ない大きな問題であり一人でその問題に対峙しようとする中島老人の考え方や行動は"極めて極端で非常識”だと誰もが感じてしまうハズです。 ところが物語が中盤に差しかって来ると、むしろ中島老人の方が”正常”なのでありこの問題に無関心な私たちの方が人類の重大な危機を全く感ずいていないのではないのか、との感想を抱いて来る様になります。 縁側で孫を抱いている中島老人の頭上をジェット機の爆音が切り裂きます。その時、中島老人は恐怖に震えうずくまります。 この映画では全編を通して核兵器や戦争の悲惨な描写は全く無いのですが、このシーンで何故中島老人が核兵器に対して大きな恐怖心を抱くに至ったのかが理解出来ます。 中島老人は先の戦争で大きな恐怖を体験していたのです。 裁判所で中島老人は「死ぬのは仕方ない、しかし殺されるのは嫌だ!」と発言します。 裁判所の参与を務める原田歯科医師(志村喬)は中島老人の準禁治産者の申請を認めた事について「この裁判所の判断は間違いだったかも知れない」と考えるようになります。 中島老人は家族の生活を支える鉄工所があるから息子達は踏ん切りがつかないのだ、と判断して自ら鉄工所に放火します。その時、従業員達が「俺達の生活はどうなるんだ!」と彼に詰め寄ります。その時彼はハッと我に返ります。 ラストで精神病院に収容された中島老人が尋ねて来た原田医師に「地球が燃えている」と話しかけます。 果たして自分が正常だと考えている人間は中島老人を"被害妄想”だと笑えるのかどうか、黒澤監督が50年以上も前に投げかけた問題はあまりに大きいです。

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