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幕末太陽傳 (1957)

監督
川島雄三
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4.12 / 評価:217件

時間をぶち破る生命力の物語

  • byu***** さん
  • 2020年10月26日 0時03分
  • 閲覧数 250
  • 役立ち度 1
    • 総合評価
    • ★★★★★

大きなスクリーンに映し出される物語を冷静に受け止めて思ったことは、まず、「若いなあ」ということだ。
実際、若い。公開当時の川島雄三監督が39歳で、フランキー堺は28歳だそうだ。南田洋子も左幸子もそれより若い。石原裕次郎や二谷英明、小林旭ら長州藩士の面々も、妙に存在感をみせる岡田真澄もピッチピチ。とにかく役者たちの若さが目立つ。

だが、若いのはそれだけではない。作品の全編にわたってみなぎる躍動感、脚本の持つ勢いが圧倒的なのである。
作中の時間経過は非常にわかりづらい。徹底的につくり込まれた相模屋のセットは昼と夜を繰り返し、モノクロのコントラストの中で激しく浮き上がったり沈んだりを繰り返す。現実的に流れる時間をねじ曲げる、若さゆえの特権とでも言えそうな、主観的な時間の流れ方を強く感じさせる物語展開となっているのだ。この作品における時間は、佐平次(≡フランキー堺)を中心にして渦を巻いている。

だから、最後に杢兵衛大尽が現れて、時間の強制的な終了である「死」が意識されるようになると、急に時間は佐平次のものではなくなってしまう。時間は死に向かっての直線的な流れ方を始めてしまうのだ。
川島監督が当初考えていたラスト、佐平次が時間を超えて昭和32年の品川へ駆け出すことが許されなかった事実は、思いのほか重い意味を持ってしまっている。佐平次という想像力が、現実という壁に遮られた敗北宣言にほかならない。時間を自分にとって都合のいいものにしてしまおう、という若き野望は、死という究極の現実を匂わされて失速してしまう。『幕末太陽傳』は、まるで西部劇のような現実への敗北で終わっている、と言っていい。もちろん佐平次は力いっぱい「生きてやる」とは叫ぶ。でも彼を見つめるカメラの視線は、ひどく現実的で醒めている。

とはいえ、そのことでこの作品の価値が落ちるわけではない。むしろ、観客にすべてが委ねられたと受け止めるべきだろう。
佐平次は、昭和32年の品川の街になど飛び出さない。佐平次が本当に飛び出していくべき場所は、スクリーンだ。今まさにライトがつかんとしている映画館のスクリーンなのである。スクリーンをぶち破って、客席の間の通路を走り抜けて、ドアを開けて外へ出る。そこには21世紀の日本の街が広がっている。彼は少しもためらうことなく駆け出すに違いない。
そんな佐平次の姿をできるだけ克明に頭の中で思い描くこと。それが『幕末太陽傳』の正しい結末だと、僕は断言する。

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