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炎上

炎上

99

ぴーちゃん

4.0

「炎上」と「金閣寺」(1976)

市川崑の1958年の「炎上」と高林陽一の「金閣寺」(1976)を見比べてみた。どちらも言わずとしれた三島由紀夫の「金閣寺」の映画化である。「炎上」はなにが凄いかっていってその映像美に尽きる。撮影はあの宮川一夫。黒澤作品などでつとに有名。「羅生門」の太陽のカットなんて伝説的。とにかくモノクロの画面の美しさときたら天下一品。他の追従をまったく許さない。クライマックスの炎上シーンは言うに及ばず、寺の内部の奥行き、庫裏や食堂(じきどう)の広さなど日本建築の優雅さと言うものをここまで美しく魅せる技は奇跡的ともいうべきであろう。おいらの言うことが間違ってると思うなら、凡百のつまらない構図の邦画がどれだけ巷に溢れているかを検証してみればよい。キャストもまたいい。主人公の吃音の修行僧に市川雷蔵。足の不自由な友人、柏木に仲代達矢。しかしこの作品ではなぜか、刈谷という名前に変更されている。遊郭の娼婦まり子が中村玉緒。それぞれみんないいんだけど、白眉は老師役の中村雁治郎。福々しい輪郭に何を考えているのか分からないような目つき。完璧な演技で老師の表裏を演じきっている。実はこの「炎上」は金閣寺からの協力を得られないばかりか、金閣寺の名称の使用も拒否されたためにタイトルの変更を余儀なくされたようである。だから作品内の呼び名も金閣寺ではなく”驟閣寺”になっている。しかしながら、重要な登場人物である柏木を何故刈谷にしたのかが解せない。まさか全国の柏木さんからクレームが入ったわけでもあるまいに…。だがこの「炎上」は原作とは方向性を異にしていることは疑うべくもない。それが決定的なのは映画のラストシーンに集約されている。原作は金閣に火を放った後に主人公は自殺用に持っていた小刀と薬の瓶を谷底に投げ捨て一仕事終えたかのように煙草を一服して生きることを決意して終わるのだが、この作品のラストは、列車から飛び降り自殺を図って死んで終わっているのだ。「炎上」では友人二人、鶴川と柏木の原作における重要度はかなり下げられている。変わってこの作品では母親(北林谷栄と老師の比重が大きく描かれている。一番不満に思うのが、主人公の性に対する描写のほとんど意識的とも思えるほどの割愛である。この映画には主人公の初恋の相手である有為子も出てこず、乳飛ばしの場面もなければ、米兵の連れの女の腹を踏みつける場面もない。要するに主人公の内面の性的葛藤が抜け落ち、綺麗ごとすぎるのだ。1976年の高林版ではもちろん有為子も登場するし、全ての三島らしい場面もこれでもかと言うぐらいに映像化されている。もちろんATGということもあるだろうし、時代背景もあるだろう。原作に忠実な分、評価が低いと言う大変気の毒な作品になってしまったようだ。映画と原作はもちろん別物だと考えている。それぞれ独立した作品である。だからこそ、その独立性において「炎上」のほうが世間の評価が高い。しかし、私のような三島ファンは市川雷蔵よりも1976年版の篠田三郎によりシンパシーを感じてしまうのである。だからこそ、私としてはこの「金閣寺」を擁護したいと思うのである。たとえば「炎上」では、女の腹を踏む場面はこういう風に脚色されている。米兵にぶたれた女はいきなり走り出し驟閣に入ろうとする。それに驚いた溝口が阻止しようとしてもみ合いになる。「驟閣を汚したら、承知せえへんで」倒れた女はお腹を押さえて苦しげにうめく。あわてて溝口は助け起こそうとするが、それを制して米兵は溝口に「心配するな。この女は妊娠してたんだ。(手間が省けた。)ありがとう」と早口の英語でまくし立て礼を言って煙草を2カートン押し付けて、ようやく立ち上がった女を連れて帰っていく・・。原作では金閣に入ろうとしたなんていう描写は皆無である。むしろ逆で参拝路の入り口に向かって駆け出すのだ。つまりこの場面での要点は、驟閣(金閣)を守ろうとしたということを観客により印象付けたかったということと、女の腹を踏むことに喜悦を覚える溝口の屈折した性衝動の秘匿なわけである。金閣の美しさに魅せられた青年と言う面ばかり強調される市川崑演出にへそ曲がりのオイラは反発を禁じえないのを白状するものである。ただし、この原作とは違うアプローチを試みたことは大いに評価しなくてはいけない。まさにこれこそが映画作家たるものの仕事であるからに他ならない。原作を忠実に映画化するのではなく自らの解釈を加えることこそが芸術だろうと思う。しかしながら「炎上」はやはりアッサリし過ぎている。三島作品の濃密さが圧倒的に足りない。幾重にも折り重なったパズルのような複雑な世界が分かり易い淡白な世界になってしまってると感じるのは、やはりオイラが三島文学の囚われ人だからなのかもしれない。

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