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炎上

炎上

99

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2.0

「私」の心理の変遷、描き切れず

監督:市川崑、原作:三島由紀夫『金閣寺』、脚本:和田夏十(わだ・なっと)、長谷部慶治、撮影:宮川一夫、音楽:黛敏郎、中本利生(邦楽)、美術:西岡善信、主演:市川雷蔵、仲代達矢、1958年(昭和33年)、モノクロ、99分、大映。 配役は、吃りの若い僧侶、「私(溝口)」を市川雷蔵、柏木を仲代達矢、老師を中村鴈治)、「私」の母を北林谷栄が演じている。 第32回キネマ旬報ベスト・テン4位、男優賞(市川雷蔵)、第13回毎日映画コンクール男優助演賞(中村鴈治郎)、第9回ブルー・リボン賞ベスト・テン3位、撮影賞(宮川一夫)、男優主演賞(市川雷蔵)、男優助演賞(中村鴈治郎)、など多くの賞を受けている。 市川雷蔵にとっても、初の現代劇であり、その演技力は、『剣』『ある殺し屋』などに引き継がれていった。 市川崑・和田夏十夫妻の監督・脚本コンビは、この翌年、『鍵』を完成させる。 『鍵』は、谷崎潤一郎の『鍵』を原作を、その内容と雰囲気を正確に掴み、全編を夏十が脚本化した秀逸な作品である。 この著名な映画は、今までたびたび見てきたが、映画として、常に釈然としないものを感じてきた。私のなかでは珍しく、座りの悪い作品なのだ。 レビューを書きやすいのは、大変感動したか、大変失望したか、のどちらかのときだ。 そう、この映画には、個人的には失望した。原作に、ではない。映画に、である。 『鍵』が天下一品の芸術だとするなら、『炎上』は、まことに、「おもしろみのない秀作」である。 すなわち、エンタメ性がないのだ。 脚本は、ほとんど書き直しの連続という難産の末に、これに落ち着いた感じがする。 ところどころに回想をはさむやりかたはうまいと思うし、溝口と母親、溝口と老師などの掛け合いのせりふも問題ないと思う。 映像は、職人・宮川一夫が丁寧に撮っており、初の横長のシネマスコープを、うまく使ったフレームどりをしている。陰影の効いたシーン、仰角俯角でたたみかけるシークエンスもすばらしい。 しかし、それでもなお、原作と微妙なズレがある。 三島自身も試写を見て、これを絶賛したというが、本心はどうか怪しいものだ。 『鍵』も『炎上』も、いずれも原作の映画化だ、と宣言している。 そして、『鍵』は映像として一級品になったにもかかわらず、『炎上』はそれになりそこねている。 前者がカラー、後者がモノクロということは関係ない。 その最も大きな原因は、主人公「私(溝口)」の心理描写に成功していない、という一点だ。 そもそも、吃りのせいで、暗く鬱屈した心の持ち主であり、その「私」が、父親の言っていた金閣を目の当たりにして、絶対的美を意識し、やがてその美が、醜い自分の心にしつこく投影し、しかもその金閣を至上の美として崇拝する「私」には、その「妨害」を如何とすることもできず、やがて心の彷徨(舞鶴への旅行)の末に、金閣を「焼かねばならない」と決意する、・・・・・・ ここまでの心理の変遷は、ほとんど映像化が不可能であり、夏十の実力不足とは言えない。 それでも何とか映像に残したかったという市川夫妻の熱意で、ようやくここまでこぎつけたのである。 『金閣寺』には、「私」に影響を与える人物として、同級生の鶴川と不具の柏木がいる。 この両者とも、「私」の心理からは離れたところで、「私」の金閣放火に間接的に影響を及ぼしている。偽善的な老師も同様だ。 これらのキャラクター描写が弱い。二人あるいは三人ほどの会話シーンでも、セリフは多く、掛け合いも間を置かないので、それが却ってキャラクターやシチュエーション描写の徒(あだ)となってしまっている。 100分ほどの映画にするために、象徴的なエピソードや独白が、かなり削られてしまっているのももったいない。 原作のあるものを、その原作に「忠実に」映画化するのは難しい。 あるいは、文字の並びで完成したものを、映像に変えて実現させることは、ありえてはならないことなのかも知れない。 逆に、映像化したら、そちらのほうが成功して、後から原作がヒットするということもある。 こちらは一介の視聴者だ。 恋愛ものであれ、サスペンスものであれ、戦争ものであれ、楽しめない作品(エンタメ性の低い作品)では、仮に大御所の作品でも、残念なのだ。 黒澤明の多くの作品同様、「おもしろみのない秀作」は、賞の対象になりえても、観る側の心に響かないのだ。

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