太陽の墓場
3.8

/ 30

27%
37%
23%
13%
0%
作品情報上映スケジュールレビュー

あらすじ・解説

解説:allcinema(外部リンク)

本編配信

スマートフォンご利用の方はアプリから視聴できます。

予告編・動画

作品レビュー(11件)

絶望的16.7%切ない13.9%悲しい11.1%恐怖8.3%セクシー5.6%

  • mal********

    2.0

    異様なエネルギーに満ちた映画ではあります

    1960年に公開された映画です。 終戦から少し経過した大阪を舞台に繰り広げられる、なんともエネルギッシュ、そしてなんとも凄惨なドラマは良くも悪くも圧倒されました。 鑑賞し終えて思ったのは〝ほんまに大阪は当時こんな感じやったんか?〟ということです。まあ、本作に限ったことじゃないんですが、1970年代前半くらいまでの日本映画には〝まともに働いて生活してる人はおらかったんか?〟って思わせるものが多く、本作に至ってはそんな底辺の世界でくすぶって生きる人間の愚かさと図太さが鮮烈な印象を残します。 その意味では大島渚監督の力作だと思いますが、一か所だけ犬好きの私にはどうしても許せないシーンがあって、そこさえなければ本作に対する印象も変わったと思います。

  • ind********

    3.0

    太陽族ブームへ大島監督怒りの鉄拳

    往時の太陽族ブームへの反感を「現実はそんなもんじゃねえ」と怒りに怒った大島監督の爆発映画か。 石原慎太郎ら上流階級層がリードした「太陽族ブーム」の反面に、社会には戦後の成長に足蹴にされ続けた多くの国民がいたのだ、という社会派大島監督の「pまえらどこ見とんじゃあ」という作品か。 予告編を見ると、松竹はどうも太陽族ブームにのった不良映画を期待したのにあがってきた予告用フィルムを見て、どう処していいかわからない戸惑いが見えます。 それくらい、60年代の日本社会は大きな格差社会構築へ一歩大きく踏み出していったのでしょう。貧富や支配被支配の関係が、持つものと持たないものの間に生ずることは致し方ないにしろ、なら「自由」「平等」などと憲法に謳うなよといいたくなったのではないでしょうか。 世は変わらず、格差を広げていっていますが、残念なのはこの映画にも不満や嘆きはあっても、希望の光が見えないことです。 泥も毒も呑み込みながら、社会が変わることなど期待せず、自身だけがなんとか生きていくため喘ぎ続けるしかない、という人間の宿命が描かれているように思います。 DVDでご覧になると、とても楽しいおまけ画像がついてます。その名も「明日の太陽」。なんかかんちがいしてるなあ・・と思えるのですが、当時若者たちが何を求めているのか、いったんが覗けるようです。十朱幸代さんのもうとっても愛らしい姿も拝見できます。本編には、アラン・ドロンを彷彿とさせる佐々木功さんの姿も観れます。 格差社会の今、もう一度光があたってもいい作品かもしれません。 高校生や大学生には戦後史を学ぶ入り口としてお奨めです。学校で教えない市民の歴史教材になるかもしれません。

  • kor********

    5.0

    ネタバレ止まった者から消えていく

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • まるたん

    4.0

    大島渚版「太陽の季節」

    石原慎太郎の小説「太陽の季節」は1955年発表。 その年に芥川賞を受賞すると、すぐ翌年に長門博之と南田洋子の配役で映画化された。 湘南の夏を舞台として、富裕な育ちの若者が、無軌道で刹那でアナーキーな生き方の中で、友情や愛といったものに背をむけて、それぞれが裏切り、傷つけあいながら、悲劇を重ねていく物語は、大きなセンセーションをまきおこした。 ファッショナブルでもあり、危険な香りをまき散らす生き様は、「太陽族」といわれるようにまで影響力を拡大した。 「太陽の季節」のヒットをうけてすぐ、今度は同じ石原慎太郎の「狂った果実」が、石原裕次郎を主演に、舞台設定を同じ湘南として、撮られる。中平康の処女作(劇場公開)となったこの作品は、トリュフォーまでもが絶賛し、石原慎太郎と「太陽族」の名をさらに喧伝することとなる。 それから「太陽」を背負った作品の系列が、あたかも、「太陽の季節」や「狂った果実」に対するアンチテーゼのように生まれてくる。 もっとも有名なのは、川島雄三の「幕末太陽傳」であろう。幕末の町人のアナーキーで軽佻な生きざまに、支配階級である武士を対峙させてながら、緊迫するムードや破戒衝動を、二本差しの侍にまかせて、フランキー堺の落語の登場人物の輪郭をもった主人公が、「太陽」の方向を東ではなく西にあるとおどけて指をさすかのような作品である。 本作「太陽の墓場」も、「太陽の季節」と「太陽族」に対する大島渚監督の痛烈な批評といえる作品であり、大島版の「太陽の季節」といえるのである。 1960年の作品。大島渚は「松竹ヌーヴェルバーグ」と冠せられた一連の作品を発表していったが、デビューから本作は4つめ。 舞台は、大阪西成萩之茶屋。 売血、買春、戸籍売買を巡るドヤの若者のチンピラ抗争が、無軌道で刹那的に、そして溢れ出る破戒衝動として描かれていく。 「太陽」はここに堕ちて、南海電鉄の高架下の泥水の中にある。富裕な湘南の若者ではなく、こちらは墓場のようなどん底にいる若者の中で繰り広げられるのだ。 うだるような暑さの夏、夜なのに汗はひかず、皆、白熱電球の下で薄汚れた肌に、ギラギラとぬめるような光を反射させている。この光と汗が、いかに「太陽の季節」や「狂った果実」と違う印象を与えているだろうか。 主演に「太陽の季節」の主演長門博之の弟であり、「狂った果実」に抜擢されてデビューした津川雅彦を起用し、さらに、津川雅彦の相手役でもあった北原三枝似の女優、炎加世子をあててるのが面白い。これは明らかに狙った配役であろう。 西成の光景は徹底的に写実的である。かなり後年につくられた小栗康平の「泥の河」が童話的光景にしか過ぎないと思えるくらいに、この大阪の町に流れる水は澱んでいて、ゴミやあぶくが浮かび、臭気が画面から臭ってきそうだ。そしてそこに、津川や炎の仲間でありながら裏切られていった青年の死体が放り込まれていく。 西成を舞台にした映画といえば、中平康が撮った1962年の「当たり屋大将」がある。 ヌーヴェルヴァーグの誕生に立ち会うような映画でもある「狂った果実」の監督は、スタイリッシュで、スピーディーでリズミカルな映像でライト級の作品を量産していて、その中でも「当たり屋大将」はスマッシュヒットな成功作である。 「太陽の墓場」と同じく西成の南海電鉄沿いの高架下の人間模様を描きながら、それとはまったく違うコメディ的なタッチである。この作品の主演は長門博之、さらに中原早苗。このふたりは「太陽の季節」に出演していた2人なのは、これまた偶然だろうか。 右翼思想をもった男が説くいかがわしい政治の話や暴動に至る経緯は、スパイク・リーの「ドゥ・ザ・ライト・シング」(1989年)を何か彷彿させる。あれもニューヨークの下町の夏の出来事だった。 決してファッショナブルではないし、独自の訥々と不器用に流れる音楽からしても、この映画とは隔絶していながら、なぜか自分のは、日本の「ドゥ・ザ・ライト・シング」と名付けることが許されるような相似性を感じる。 生々しく赤が映える売血用の瓶との引き換えに渡される一枚の紙幣。握りしめられる手は、汗舗装されてない車道の砂埃や廃墟の空き地の土くれに汚れ、河の労務のために油で光沢を放つ。 しかし、ここには堕ちた太陽が輝いて、それは人々が傷つけあいだまし合っている底辺の生活を照射している。 これがもうひとつの「太陽族」なのだ。大島渚の挑戦的で若き熱血をひしひしと感じ取れる作品である。

  • ckr********

    5.0

    みんなぶちこわせ

    日雇い労務者、ルンペン、得体の知れない人間たちが集う大阪、釜ヶ崎。ドヤ街のあばら屋で、生きるため、金のために血を売り戸籍を売る。労務者たちから吸い取った血を資金源に、勢力を拡大しようとする新興暴力団。その暴力団に拾われる田舎でのチンピラ佐々木功。チンピラは所詮チンピラ、組織の言いなりだ。あくどい手口が嫌になり、組を抜けようとすれば手ひどいリンチにあう。労務者たちから吸い取った血で稼ぎ、夜は通天閣の見える夜の街で男をひろう若い女(炎加世子)。空がみえる骨組みだけの廃屋で、二人は初めて結ばれる。主演の炎加世子が大阪のドヤ街に生きる若い女のエネルギーを爆発させ、佐々木功の透き通るような歌声が印象的だ。本当に世の中変わるんか!と、動乱屋の首を締め上げ、何度も問い続けた炎加世子。60年安保から40年たった2010年の日本。派遣切りで職を失い、住む家を失った非正規労働者、リストラにあう正社員。40年前より日本の社会はよくなったのか。釜ヶ崎や山谷がいかに小ぎれいになった所で、経済不況、デフレ、リストラで失業者があふれ、自殺者が年間3万人をこえる今の日本社会が40年前より良くなったとは、とても思えない。全て灰になったボロ住宅の前に、呆然と立ち尽くす住民を尻目に、仲間のニセ医者の手を引き夜明けのドヤ街をずんずんと歩いて行く炎加世子。大阪で生まれた女のバイタリティ。60年安保の年に作られたこの作品、大島渚の全てを焼き尽くし、破壊し尽くせと言う強烈なメッセージが伝わってくる、松竹ヌーベルヴァーグの異色作だ。

スタッフ・キャスト

人名を選択するとYahoo!検索に移動します。


基本情報


タイトル
太陽の墓場

上映時間
-

製作国
日本

製作年度

公開日
-

ジャンル