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上映中

伊豆の踊子 (1963)

監督
西河克己
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3.43 / 評価:47件

無邪気な踊子の足元には

  • ogi******** さん
  • 2020年7月8日 17時34分
  • 閲覧数 257
  • 役立ち度 0
    • 総合評価
    • ★★★★★

「伊豆の踊子」1963

「あっお月様。明日は下田。嬉しいな。赤ん坊の四十九日をしておっかさんに櫛を買ってもらって。それからまだいろんな事がありますのよ。活動に連れてってくださいましね。お休みなさいまし」18歳の吉永小百合が眩しい。そしてこの日本語の美しさ。

高橋英樹演ずる一高生(現在の東京大学教養部)の主人公が旅芸人一座と旅をする物語。

映画は最初と最後にモノクロの現代の場面が付け加えられている。高橋英樹の一高生は大学教授になっている(演じたのは宇野重吉)

この現代の部分の他に原作にない場面が付け加えられている。

(1)踊子(吉永小百合)が病に倒れても客を取らされた娼婦・お清(十朱幸代)と偶然出会う場面。そこにお清の同僚・お咲が「何見てんだよ!お前さんだっていつかはこうなるんだよ」と踊子を追い払う場面
(2)主人公が旅館の混浴風呂に入っていたところに酌婦達が入って来てお咲(南田洋子)と言い争いになり主人公が風呂から出るに出られなくなる場面
(3)踊子が宴席で助平心を出した客に絡まれた時に土地の人夫頭(郷英治)から助けられる場面。
(4)病死したお清の棺桶が山の中に棄てられるのをお咲が口惜しそうに見送る場面
(5)旅芸人一座と別れ東京へ船で帰る主人公を見送る為に踊子が港に駆けつける途中チンピラに囲まれるが人夫頭に助けられる。そして人夫頭が踊子を好色な目で見送る場面

なぜこれらの場面に気がついたかというと昔、原作を読んだ時に主人公の一高生の一人称で書かれていたと記憶していたから。(2)以外には主人公は登場していない。

久しぶりに原作を読んだがやはりこれらの場面は原作になかった。

(1)と(4)は文庫本「伊豆の踊子」に収録されている「温泉宿」が元になっている事が分かった。

「温泉宿」は四季ごとに章立てされている。伊豆の温泉宿で清掃や酌婦やそして売春を生業とする様々女性達の群像劇だ。

おそらく監督と脚本家は「伊豆の踊子」だけでは尺が足りないと考えて「温泉宿」のエピソードと人夫頭のエピソードを付け加えたのだろう。

「伊豆の踊子」は孤児であるが故にひねくれていた主人公が旅芸人一座との旅で変化していくという青春物語とされている。しかし今回原作を読むと一座の中に踊子を見つけた主人公は踊子との一夜を妄想して必死に一座を追いかけている。そんな性的妄想に囚われている主人公の気持ちが変わるのは有名な露天風呂の場面。原作では踊子の白い身体を見て「なんだ、まだ子供なのだ」と主人公の性的妄想が醒めて爽やかに笑う場面だ。つまり踊子はまだ第二次性徴を迎えていない「真っ白な身体」だったからだ。

もちろん映画では踊子のオールヌードのカットは無く上半身のみだ。観客は彼女の無邪気さを感じるだけだが主人公の中では踊子は性的対象から妹の様な存在に変化している。

だから一高生と踊子の関係は男女関係にはならずにプラトニックに進んでいく。

そして付け加えられた場面はその清純な物語とは正反対な性と死の物語。

それは将来踊子が生きる未来なのかもしれない。大体踊子一行の一人一人が望んだ人生を生きているわけではない。一座を率いる踊子の兄はかつて新派の俳優だった。その妻は旅の途中で妊娠したが二度も流産している。一座の財布を握っているのは妻の母(浪花千恵子)そして大島で雇った娘。

彼らは茶屋のおばあさんから「あんな奴ら」と蔑まれている。

いつまで旅芸人が出来るのか?いつか踊子は人夫頭の様な人間に見込まれて妾にされるかもしれない。お清やお咲の様な飯盛女・商売女になるかもしれない。

原作小説にはない「性と死」を付け加えて映画はモノクロの現代に戻る。宇野重吉は踊子に瓜二つのダンサー(吉永小百合)と学生(浜田光夫)を見送る。二人は学生結婚しようか迷っている。

現代の二人は自分で選択して人生を切り開いていく。数十年前の夏に出逢ったあの踊子はどんな人生を送っただろうか?

無邪気な踊子の足元には深い断崖が口を開けている。踊子が幸せな人生を送った事を願ってやまない。人生の儚さに胸が締め付けられる

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