人魚
5.0点
1964年に我らが手塚治虫先生が 今作『人魚』を発表した。 そして、 その4年後にベルギーの巨匠ラウル・セルヴェが ほとんど同じ題材やプロットを持った 『シレーネ』を世に送り出した。 どちらの作品も、 権力の傲慢さや想像の大切さなどが強く現れている作品です。 しかし、 言わんとすることはあまりにも違うような気がします。 ・~・『人魚』のレビュー・~・ 今作は空想を奪われた社会や権力への批判をうたっていますが、 実際は全然そんなものではない。 今作の本当のテーマは、心の成長だと思う。 少年が小魚を人魚だと思う。 しかし、大人になるにつれ、 子どもの頃の空想は非論理的で馬鹿げていると思うようになり、 そのうち形も思い出せなくなる。 そして大人になると、子どもの頃に起きた事はみんな忘れて、夢にしてしまう。 でも、少年は子どもの頃の空想を忘れる事を拒み、 誰も届かない地平線へと消えていくのでした・・・ ってな感じなんですよ。 ムードもヘッタクレもない言まわしですが、 このレビューで言いたいのは東西の『人魚』の比較です。 今作に出てきた国家権力は言い方が悪いですが蛇足。 粗筋は別のもっと良いレビューをお読み下さい。 ・~・『シレーネ』のレビュー・~・ 『夜の蝶 ラウル・セルヴェ作品集』に収められている今作。 ・~粗筋~・ ドラゴンのようなクレーンが武器を積み上げ、翼竜が飛び交う。 釣り人の針には骨の魚しかかからない、地獄のような港。 そんな港の夜に、 貨物船の船員が笛を吹くと人魚がやってくる。 座礁した帆船には、新たな帆がなびく・・・ 後編。 クレーンに釣られた人魚は落下し、 波止場に打ち付けられ絶命する。 驚いた釣り人は大急ぎで警官を呼んだが、 彼らは人魚の骸を散々もてあそんだだけだった。 駆けつけた救急車と動物園の職員達は互いに人魚の所有権を主張し、 裁判の結果、人魚は真っ二つに切断される・・・ 再び夜。 チョークで描かれた人魚のシルエットを少年が見つける。 月光で現れた影を、少年は自ら人魚の隣にチョークでなぞる。 二つのチョーク線は星座の彼方へと飛び去ってゆき、 少年は地上からその姿を見上げるのであった・・・ 政治的主張は圧倒的にこちらのほうが上だ。 権力への嫌悪やまがまがしさがにじみ出ているように感じる。 しかし、細かな心象描写は断然『人魚』のほうが上だと思う。 まあ、今作に関していえば、 どっちの意味でも‘見たまんま”という印象でした。 ・~では本題~・ アニメはやっぱり‘絵”だと思う。 絵に限って言えば、 個人差もあるだろうが個人的には断然『シレーネ』のほうがいいと感じた。 クレーンの悪夢的くねりや人物のコミカルの動き、 全体のテンポのよさは、 『人魚』の繊細で絵本のような絵、 言い換えれば割と大目に手を抜いたっぽい ほとんど動的な面白さに欠く絵、よりずっと面白い。 だが、物語は別だ。 『シレーネ』は作者の主張があまりにも強すぎて、 受け取る側に想像の余地がなく、自由度がとても低い。 だが、『人魚』は絵の効果もあってか、 なんか無限ぽい雰囲気があって、とても爆発的に見えた。 で、一番の疑問だが、 見れば見るほど思ってしまう 「セルヴェぱくったべ?」 ここまで一致していると、 もしセルヴェが『人魚』を一度も見たことがなくて ここまで瓜二つのものを作るってのはありえない。 しかし、そうするともっと面白い見方が出来る。 東西で、同じ物語を作ったらどうなるか?という問題だ。 一方は多面的に捉えることが出来る作品。 もう一つは強烈な暗喩の押し付け。 無論人柄に左右される事は分かっている。 セルヴェの反戦アニメや伝統の喪失への危機感は、 後の手塚のペラい環境問題アニメとは雲泥の差だ。 しかし、それを足しても、 そこにはヨーロッパと日本の国民風土の違いが見え隠れしているのではないか? 今の私にそれを調べるすべはないが、 他のアニメを見ていても、 私はその違いが絶対にあると確信している。 上の二つの作品はどちらも最高ですが、 私はどちらかと言うと『シレーネ』のどぎつい世界観のほうが好みです。 あのべったりと脂ぎった雰囲気は、 手塚先生はアニメラマでも表現できていなかったと思います。 東西の巨匠が描いた同じ題材を、比べてみるのも一興かと・・・