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清作の妻 (1965)

監督
増村保造
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4.23 / 評価:44件

ゲージツしない監督若尾文子を艷やかに撮る

  • 奥田映二 さん
  • 2011年9月20日 21時17分
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    • 総合評価
    • ★★★★★

増村監督の作品は基本線としてドラマツルギーを語る映画であり、平たく言えばストーリーテラーそれは娯楽性につながるということだろう。

場面展開もテンポ良く、長回し、長ゼリフは無く、登場人物の性格もはっきり解りやすく、子供から老人までが観ていて退屈になったり眠くなったりしない様な、映画の基本はこれだというようなのが増村作品の特徴だろう。

大映という会社がそのワンマンオーナーの意向で、傾向映画的なもの(いかにも古い言い回しだな)とは対極にある商業主義的娯楽映画の製作しか認めなかった事もあるのかもしれない。
そういった環境で撮ってれば、元々ゲージツめいた事をやろうとはしなかったのかもしれない。
とはいえ溝口も小津も成瀬も黒澤もだが意識をしてゲージツをしようとしたわけでは無いし、彼等の作品もゲージツ?いやいやわかり安い上等な娯楽作品である。
それを国際映画祭で賞を取ったり評価されたりすると周囲が神格化して溝口は小津は日本が誇るゲージツ的映画の大監督だとなる。
それに比べて増村もその作品も一般的には、ゲージツではないから大した事はない(所詮大映)というような見方をされてきた節があるが、もっともっと評価されていい、つまりは面白い。

だが、この作品を観て思うのは若松監督の「キャタピラー」と筋書きは似ているような…という辺だが、その原作の江戸川乱歩の「芋虫」もだが、この映画の原作も左翼思想の作家の原作だが、やはり当時は反戦モノという捉え方はされていたということらしい。
若松監督も8月6日に広島の映画館に来て、この「キャタピラー」は戦争反対平和を訴える映画ですと言ってたようですが、まあ本音を言うとは限らないので。

でもですね若松作品もこれもだが反戦映画ではない。
この程度で、いかにも回りくどいし、これで反戦というメッセージを受け止める人は居ないだろう。

では何なのか?

愛なのか?ならば愛とは身勝手なものだ。元々そうなのかもしれないが。いや、元々人間が皆自分勝手なものなんだな。
「愛のコリーダ」では男の逸物を切り取ったが、ここでは眼を刺した。
同じ事だ。
「究極の愛の形」などと美辞麗句だが、つまるとこ自己都合である。でもそれを一応愛と呼ぶけど。

日本人の常だが、手のひら返し、排他的な田舎の群集心理、自らが正しいと正義だと増長し人を裁く独善性、こういったものも見えるが、この物語がひとつの帰結に向かっていくのが事前にわかっているしシンプルな筋書きなんで、特別憤りも感じない。

まあ今映画を観ているしーという感じになってくるのは否めない。

こんなふうにテーマを探していくと映画は途端につまらなくなってしまう。

ただ増村演出というのか、田村高廣の乳首に腋毛、その胸を掴むように触る若尾文子。
村人に追われ捕らえられるときに抵抗する若尾の着物がはだけて剥き出しになる腿やふくらはぎ。
それはとても魅力的だし、白黒であるからこそ際立つ。

それと着物でもって若尾文子の豊満なお尻のラインがわかるのもスゴイ事やと、さすが若い時は元祖性典女優、後年着物姿の特に後ろ姿は粋筋系と言われる所以、この人はええ、良すぎる、このとき32歳ですか三十させ頃一番熟れたときでっせ。
日本映画界の至宝ですね。

若尾文子、それだけでもって★3つ、後はイキのいい演出に★1つ。

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