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清作の妻 (1965)

監督
増村保造
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4.23 / 評価:44件

恋愛映画の最高峰

  • nqb******** さん
  • 2012年1月24日 22時24分
  • 閲覧数 1204
  • 役立ち度 2
    • 総合評価
    • ★★★★★

若尾文子の鬼気迫る演技は心底すごい。愛すること愛されることがどういうことなのかってことを再認識させてくれる作品。1965年キネ旬ベストテン第11位。増村保造監督。新藤兼人脚本。若尾文子、田村高廣など。

これは今まで見てきた中で、増村保造の最高傑作だと思う。むせ返るような純愛映画。ここまでの狂気を観客に見事に納得させて作品として昇華させてしまう力量に脱帽。
 
反戦映画という見方が出来なくはないが、これはやはり反戦映画の範疇からは外れると思う。これは紛れもなく純愛映画。恋愛映画の最高峰の一本に数えられると思う。これほど衝撃的な作品は世にそう多くはない。

この映画は青少年に見せてはいけないと思う。恋愛に憧れる世代のティーンエイジャーなんかに見せるのは実に危険だ。全ての社会性を断ち切って、二人だけの世界で生きるっていうことは恋愛に無知な世代にとってはとても純粋で魅惑的な事柄かもしれないけれど、それを許してしまえば社会生活の根幹が否定されてしまう。村社会や共同体を全て否定することになってしまう。確かに彼らは、卑しいのかもしれないがそれが社会なのだ。自分たちだけが純粋で正しくて、社会は汚いとか思考方法に陥る危険性が実に高い。これは無差別殺人に走る最近の犯罪者の論理に近いと思う。

オイラはこの映画のおかねの人物造詣について「ブラックホール」説を提唱するものである。すなわち、周囲のものを巻き込んで…いったん飲み込んでしまったら二度とは出られないのである。清作は村の模範青年で帰還したときに釣鐘を買ってきて毎朝村人を鐘の音で起床させてしまうほど自分を律している青年である。もちろん村中から一目置かれていているし自身も家族もそれを意識している。その清作が最初におかねを放っておけないのは自身に律した「人には優しく」という意識からなのです。やがて清作はおかねとの愛に溺れ村人から揶揄されついには狂気に巻き込まれ、模範青年は裏切り者、売国奴と罵られて堕ちていきます。

おかねは自分と社会をつなぐ唯一の道であった清作を戦争にとられ、社会性を失った。ゆえに半狂乱となるのである。孤独の淵に落ちてしまっているからに他ならない。まさしく芥川の「蜘蛛の糸」のごとく孤独の淵から清作の手によって引き上げられようとしていたその刹那に糸はぷっつりと切れかかる。観客には清作はおかねと社会をつなぐ糸だと分かるがおかねはそんなことは分かりはしない。愛する人を失いたくないという唯一点にのみおかねの意識は集中する。そして狂気は発動する。

 まさしく社会性を失っては人は生きてはいけないものなのだ。公と個の関係。国家なくして個人無しだと思うわけですよ、実際。それは個人個人が自らの欲望の赴くままに生きられたらそれに越したことはないよね。だけど、みんながみんなそんなことをしてしまえば社会は成り立たないわけだ。やれムラ社会だ、共同体はこれだから…と批判を展開するにも結構だけど、その批判ができる社会はまともなんだっていうことを認識しておいたほうがいいと思う。つまりは批判して揶揄して止まない“規律”だとか“掟”の中でヌクヌクしているからこそ批判も出来るのだということを忘れてはいけないんだと思うのです。

「七人の侍」の中で象徴的な場面があります。部落の中の三軒の離れ屋の住人茂助は自分の家を捨てて人の家なんて守ってられるかと吐き捨てると勘兵衛は一喝します。「部落の家は二十。離れ屋は三つ。三軒のために二十軒を危うくは出来ん!また、この部落を踏みみじられて離れ屋の生きる道はないっ」まさに国とか共同体とかはそういうものなのですよ。日露戦争で国のために戦っている人々の心中を思いやって「お国のために死んで来い」っていうのはそれほどおかしなことなんですかねぇ?それは今の基準でみれば狂っているとしか見えないんでしょうが、オイラは保守ですから、ときには「公」が「個」より優先されることはあってもいいと思っています。そういう意味でオイラは「村人」の一人でありたいと思う。

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