清作の妻
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作品情報上映スケジュールレビュー

作品レビュー(16件)


  • じぇろにも

    3.0

    ネタバレ岡の上にたたずむおかね

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • nih********

    1.0

    清作が全く好きになれません

    別に俺が清作を好きになる必要は全くないんだけどさ。 戦争で名誉を上げて帰国し、村を活気づけるために鐘を高台に設えて、毎朝それを鳴らして村人を叩き起こす(ヒロイズムでそんなことをしている)清作という人間が映画のメインモチーフとして良いと思えなかった。 で、若尾文子と出会って関係を結ぶ過程も具体的に描かずに気づいたら若尾が惚れているという具合なので、「こんな奴の何がいいんだよ?」という問題がどうしても心に引っかかってしまう(そもそも田村高廣とか雷蔵とかが持つクソ真面目な佇まいが俺は好きじゃないんですが)。ちゃんと具体的にどこがどう好きになっていくのかは芝居にするべきです。 新藤兼人の脚本っていつもこの手の雑さで引っかかってる印象。師匠の木下恵介譲りの荒いドラマなんだよな。 あと、二人の恋に対する障壁を若尾がかつて妾をしていたことと設定してあるけど別にそれはそんなに大した障壁として機能しない。 セッティングが気に入ってないので、清作の目は片目だけ突いたんじゃダメだったのかしら?というような意地の悪いツッコミが浮かんでしまう。 頭の弱い親戚っていうキャラは必要ですか?と(新藤兼人っぽくてこういうのも嫌い)。 あとさ、こういうストーリーって最後には若尾文子が負けなきゃダメだと思う。目を潰して清作の愛を得ることが出来たと思った瞬間に、何かに足元を救われて全てを失うとすべき。 ラストの二人の会話も説教臭くて俺は嫌い。増村は根本的に新藤兼人とは合わないと思うんだけど何本も一緒にやってるんだよな(『華岡青洲の妻』なんて傑作もあるけれど)。

  • pip********

    4.0

    増村&若尾の真骨頂。

    これこそ、増村保造&若尾文子コンビの真骨頂でしょう。 「妻は告白する」に匹敵する若尾のキレっぷりに託した、増村ならではの力強い(かつ少し狂っている)メッセージ。個人の赤裸々な欲望や願望は日本的情緒や秩序を超越し、その主体性の確立こそが今後の日本映画が目指すべきものなのだ、という彼の主張を明確に具体化した物語です。(脚本は新藤兼人)これに較べたら、大島の「飼育」や今村の「神々の深き欲望」は結局その「日本的ムラ社会の秩序」に敗北してゆくお話なのだから。なんか違うかもしれんが、とにかくこれ、傑作です。

  • kps********

    3.0

    村八分の娘

    『でんきくらげ』が面白かったということで続けて増村作品を視聴! 面白いんですが、この作品は完全に文芸作品と言える映画なので、『でんきくらげ』で感じた娯楽性や設定・ストーリーの面白さは全て裏目に出た感じでした。 他のレビュアーの方で芸術してないとのレビューがありますが、これは芸術したほうがいいなあと思える作品でした。 シンプルに村社会の特殊性に、模範兵としての仮面性・戦争への皮肉等を丁寧に描いた上で、お兼の愛を描くという内容でいいと思うんですが、監督お得意?の下衆い人間描写がイチイチ鼻に付くというかしつこいんで、内容は素晴らしく濃いのに陳腐に響くという感じに映りました。 ラストの清作とお兼のやりとりも、イチイチ全部説明してしまわなくていいと思うんですよね。 まあ芸術映画なら、説明せずに響かせたほうがいいと思います。 娯楽よりだから全部説明してしまうんですかね? 作品の方向性としては娯楽で纏まる映画ではないと思うので、如何なものかな?と思ってしまいました。 あと、お兼が清作を傷つけるのが一瞬で読めるのもマイナスですかね。 娯楽でも芸術でもやっぱ先が読めると萎えますよね。 というような感想ですが、★3つにしておきます。

  • aap********

    5.0

    知らない邦画の世界観

    戦争という大きな社会問題から様々な映画が作られていますが、このような切り込み方があるのか…と思い知らされました。自由を奪われる事を知らない私に衝撃を与えた恋愛映画でもあるかと思います。(恋愛映画という表現はしっくりきませんが)邦画に関して今まで壁がありましたが、それを払拭してくれる作品力のある衝撃的な一本です。

  • ぴーちゃん

    5.0

    恋愛映画の最高峰

    若尾文子の鬼気迫る演技は心底すごい。愛すること愛されることがどういうことなのかってことを再認識させてくれる作品。1965年キネ旬ベストテン第11位。増村保造監督。新藤兼人脚本。若尾文子、田村高廣など。 これは今まで見てきた中で、増村保造の最高傑作だと思う。むせ返るような純愛映画。ここまでの狂気を観客に見事に納得させて作品として昇華させてしまう力量に脱帽。   反戦映画という見方が出来なくはないが、これはやはり反戦映画の範疇からは外れると思う。これは紛れもなく純愛映画。恋愛映画の最高峰の一本に数えられると思う。これほど衝撃的な作品は世にそう多くはない。 この映画は青少年に見せてはいけないと思う。恋愛に憧れる世代のティーンエイジャーなんかに見せるのは実に危険だ。全ての社会性を断ち切って、二人だけの世界で生きるっていうことは恋愛に無知な世代にとってはとても純粋で魅惑的な事柄かもしれないけれど、それを許してしまえば社会生活の根幹が否定されてしまう。村社会や共同体を全て否定することになってしまう。確かに彼らは、卑しいのかもしれないがそれが社会なのだ。自分たちだけが純粋で正しくて、社会は汚いとか思考方法に陥る危険性が実に高い。これは無差別殺人に走る最近の犯罪者の論理に近いと思う。 オイラはこの映画のおかねの人物造詣について「ブラックホール」説を提唱するものである。すなわち、周囲のものを巻き込んで…いったん飲み込んでしまったら二度とは出られないのである。清作は村の模範青年で帰還したときに釣鐘を買ってきて毎朝村人を鐘の音で起床させてしまうほど自分を律している青年である。もちろん村中から一目置かれていているし自身も家族もそれを意識している。その清作が最初におかねを放っておけないのは自身に律した「人には優しく」という意識からなのです。やがて清作はおかねとの愛に溺れ村人から揶揄されついには狂気に巻き込まれ、模範青年は裏切り者、売国奴と罵られて堕ちていきます。 おかねは自分と社会をつなぐ唯一の道であった清作を戦争にとられ、社会性を失った。ゆえに半狂乱となるのである。孤独の淵に落ちてしまっているからに他ならない。まさしく芥川の「蜘蛛の糸」のごとく孤独の淵から清作の手によって引き上げられようとしていたその刹那に糸はぷっつりと切れかかる。観客には清作はおかねと社会をつなぐ糸だと分かるがおかねはそんなことは分かりはしない。愛する人を失いたくないという唯一点にのみおかねの意識は集中する。そして狂気は発動する。  まさしく社会性を失っては人は生きてはいけないものなのだ。公と個の関係。国家なくして個人無しだと思うわけですよ、実際。それは個人個人が自らの欲望の赴くままに生きられたらそれに越したことはないよね。だけど、みんながみんなそんなことをしてしまえば社会は成り立たないわけだ。やれムラ社会だ、共同体はこれだから…と批判を展開するにも結構だけど、その批判ができる社会はまともなんだっていうことを認識しておいたほうがいいと思う。つまりは批判して揶揄して止まない“規律”だとか“掟”の中でヌクヌクしているからこそ批判も出来るのだということを忘れてはいけないんだと思うのです。 「七人の侍」の中で象徴的な場面があります。部落の中の三軒の離れ屋の住人茂助は自分の家を捨てて人の家なんて守ってられるかと吐き捨てると勘兵衛は一喝します。「部落の家は二十。離れ屋は三つ。三軒のために二十軒を危うくは出来ん!また、この部落を踏みみじられて離れ屋の生きる道はないっ」まさに国とか共同体とかはそういうものなのですよ。日露戦争で国のために戦っている人々の心中を思いやって「お国のために死んで来い」っていうのはそれほどおかしなことなんですかねぇ?それは今の基準でみれば狂っているとしか見えないんでしょうが、オイラは保守ですから、ときには「公」が「個」より優先されることはあってもいいと思っています。そういう意味でオイラは「村人」の一人でありたいと思う。

  • mys********

    5.0

    増村によると女性は全て正しくなる

    何についての話かと問われれば、愛についての話と答える。 ただし、規範の愛についてでは無く、理屈や道理ではどうしても推し量れないので愛と言う単語を便宜上使うわけだけども。 手に入れたいもの。世間が何を言おうと、何もかもが無くなってもどうしても手に入れたいモノただ一つ自分にとって譲れないモノ。 それがおカネにとっては清作との世界だったのだ。 自分を疎む蔑む社会。おカネにとってはそんなモノ関係無い。 ただただ自分と言う個が生きている世界、それは清作との愛の中にある。 例え、世間にどれだけ傷つけられようとも、または清作をどれだけ傷つけたとしても。 社会は理不尽だ、自分の行う行為も理に適わない。 単に自分は「理」に依っては生きていない。清作と言う存在に依って生きている。 明らかに狂気の世界ではあるけども、その中心がおカネと清作なのだから仕方が無い。 増村はこの世界を圧倒的に正当化する。 それに対する清作はどうか。 社会の中での模範な存在。初めは明らかにおカネとは対極の位置にいる。 自分を盲目にしたおカネと二人で生きていく。 これはどう言った気持ちなんだろう。明らかにそこまでは自分は誰よりも上の存在だと思っていたのにあろうことか愛する妻によってその座を引きづり下ろされるんだ。 そこには一瞬の激情や恨みごとでもあったでしょう。 それでも俺にはお前しかいないと言わせしめる。 ここには今風で言うところのロマンティックさは無い。 ただただ「その世界」が出来たんだと言う力強さと崇高さがあるばかり。 そしてラストシーン。田を耕すシーンだ。 ここにはそれまでが何も無かったかの様に、 初めからこれが当たり前だったかの様な二人がいる。 二人にはこれが当たり前。 ある角度、他者の社会から見れば、大変狂気的で破滅的ではあるが、 もう一方の角度、清作とおカネの世界から見れば、大変牧歌的で普遍的なシーン。 恐るべし増村と言わざる負えない映画だ。 日本映画じゃ、近松物語と双璧だね。

  • 奥田映二

    4.0

    ゲージツしない監督若尾文子を艷やかに撮る

    増村監督の作品は基本線としてドラマツルギーを語る映画であり、平たく言えばストーリーテラーそれは娯楽性につながるということだろう。 場面展開もテンポ良く、長回し、長ゼリフは無く、登場人物の性格もはっきり解りやすく、子供から老人までが観ていて退屈になったり眠くなったりしない様な、映画の基本はこれだというようなのが増村作品の特徴だろう。 大映という会社がそのワンマンオーナーの意向で、傾向映画的なもの(いかにも古い言い回しだな)とは対極にある商業主義的娯楽映画の製作しか認めなかった事もあるのかもしれない。 そういった環境で撮ってれば、元々ゲージツめいた事をやろうとはしなかったのかもしれない。 とはいえ溝口も小津も成瀬も黒澤もだが意識をしてゲージツをしようとしたわけでは無いし、彼等の作品もゲージツ?いやいやわかり安い上等な娯楽作品である。 それを国際映画祭で賞を取ったり評価されたりすると周囲が神格化して溝口は小津は日本が誇るゲージツ的映画の大監督だとなる。 それに比べて増村もその作品も一般的には、ゲージツではないから大した事はない(所詮大映)というような見方をされてきた節があるが、もっともっと評価されていい、つまりは面白い。 だが、この作品を観て思うのは若松監督の「キャタピラー」と筋書きは似ているような…という辺だが、その原作の江戸川乱歩の「芋虫」もだが、この映画の原作も左翼思想の作家の原作だが、やはり当時は反戦モノという捉え方はされていたということらしい。 若松監督も8月6日に広島の映画館に来て、この「キャタピラー」は戦争反対平和を訴える映画ですと言ってたようですが、まあ本音を言うとは限らないので。 でもですね若松作品もこれもだが反戦映画ではない。 この程度で、いかにも回りくどいし、これで反戦というメッセージを受け止める人は居ないだろう。 では何なのか? 愛なのか?ならば愛とは身勝手なものだ。元々そうなのかもしれないが。いや、元々人間が皆自分勝手なものなんだな。 「愛のコリーダ」では男の逸物を切り取ったが、ここでは眼を刺した。 同じ事だ。 「究極の愛の形」などと美辞麗句だが、つまるとこ自己都合である。でもそれを一応愛と呼ぶけど。 日本人の常だが、手のひら返し、排他的な田舎の群集心理、自らが正しいと正義だと増長し人を裁く独善性、こういったものも見えるが、この物語がひとつの帰結に向かっていくのが事前にわかっているしシンプルな筋書きなんで、特別憤りも感じない。 まあ今映画を観ているしーという感じになってくるのは否めない。 こんなふうにテーマを探していくと映画は途端につまらなくなってしまう。 ただ増村演出というのか、田村高廣の乳首に腋毛、その胸を掴むように触る若尾文子。 村人に追われ捕らえられるときに抵抗する若尾の着物がはだけて剥き出しになる腿やふくらはぎ。 それはとても魅力的だし、白黒であるからこそ際立つ。 それと着物でもって若尾文子の豊満なお尻のラインがわかるのもスゴイ事やと、さすが若い時は元祖性典女優、後年着物姿の特に後ろ姿は粋筋系と言われる所以、この人はええ、良すぎる、このとき32歳ですか三十させ頃一番熟れたときでっせ。 日本映画界の至宝ですね。 若尾文子、それだけでもって★3つ、後はイキのいい演出に★1つ。

  • どーもキューブ

    5.0

    戦争にたてつく激情愛

    増村保造監督。本作を見て増増(マスマス)増村ファンになった。彼の女性の描き方は増村監督が師事した溝口監督の流れを汲んでいるように見える。そして若尾文子の女優たる美しさ。本作でわふて寝するはみ出し激情女性を体現する。一方若尾ことオカネに恋する模範兵セイサクに田村たかひろ。「愛の亡霊」でも幾分キャラかぶり。音楽の山内正の繰り返す旋律、土着的な村社会(本当、「日本の村」ってこんなんだったろうなーと痛感)に一組の愛。ラストの素晴らしい淡々とした終焉。(ドラマの終わりに寂しさを感ずる)増村保造の女魂に完敗で乾杯!女性は本作を見て村の人と同意見かな?

  • dqn********

    5.0

    ネタバレ愛を追い求める女の強さ

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • じゃむとまるこ

    4.0

    ネタバレ増村と新藤兼人との相性

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • hai********

    3.0

    ネタバレ反戦イデオローグの増村映画への罪

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • ********

    4.0

    言葉がつまる女

    あの、『祇園囃子』で舞妓だった若尾文子が大人の女になって、声が低くなって、情念がほとばしる!!男への思いが募るばかりに、ほぼすべてのセリフで「ああ」とか「うっ」とか言葉がつまる。男の目を刺す直前、茫然とする彼女の顔と、刺した後、血まみれで逃げ回る姿が圧巻です。 模範兵として正しすぎて村のなかで浮いている男と、元妾として浮いている女が夫婦になって愛を貫徹する。軍隊に行かせないために夫の目を指す妻と最終的にそれを許す夫。 因習に逆らう「愛」を強調するために、刺されて苦しみもがく夫の姿と捕まってもがく妻の姿が同じ構図でカットつなぎされ、判決を聞く妻と周囲に説教される夫も同じ構図でつながれる。一対一の「愛」の結合を、物語の因果関係を無視して、似た映像の構図としてつないでしまう徹底ぶり。増村保造監督+若尾文子コンビ恐るべし。

  • vlu********

    5.0

    古きよき夫婦のかたち

    少しショッキングな場面がありますが、そうでなければ 貫けなかった愛なのだと思います。 本当に衝撃的なのはこの映画の背景になっている 村の過剰なまでの仲間意識、地域性、それぞれの人間性です。 主役の二人を取り巻く人たちの価値観こそ、絶望そのもの・・・ ニコール・キッドマン主演の「ドッグ・ヴィル」に通じています。 人は自己擁護のために、他者を罵るのだということを実感。

  • のんちゃん

    5.0

    フィルムノワールの傑作

    増村保造は男を描くとクールであり、女を描くと究極の愛の形になる。土着性の強いドラマを、今村昌平の様に人間臭くなく、反対に女の弱さを五寸釘で目を刺すと言う、アバンギャルドな傑作となった。

  • tir********

    4.0

    日本の歴史の重みの中で

     この作品のストーリーは皮肉に満ちたものですが,映画全体を通して,監督は,歴史の大きなうねりの中で生きる,名もない人々の苦しみと闘いとを再現しようとしています.戦争に彩られた日本近代の歴史が,背後で作品を支配しています.  時代は20世紀初頭,日露戦争前後.おかね(若尾文子)は,不幸だった妾生活に終わりを告げ,故郷の山村に戻ってくる.そこで,家族も村も誉れに思っていた模範的な青年召集兵(田村高廣)と出会うが,それが両者の運命を大きく変え,二人は誰もが思いもよらない運命を辿ることになるという話です.  女性の苦悩と幸福,個人の自由を圧殺する日本の村落社会の告発など,いくつかの角度からこの映画を見ることができますが,個人的には,歴史への問いが目につきました.日本の行ってきた数々の戦争とは何だったのか,そしてそれによって形作られた日本の近代とは何だったのか.こうした問いかけが随所で浮かび上がり,観る者の印象に残ります.  映画の制作年が,戦後一定程度経ってからである点が興味深い.ともかく,戦争は映画の最初の場面からいきなり観客におっかぶさってきます(日露間の緊張の高まりを報道する新聞記事がアップで).日本の歴史の中で日露戦争が持つ意味合いが想起されます.近代の戦争の歴史の中では,戦争に行った者も,行かなかった者も,それぞれの仕方で苦しみを強いられたことが,ストーリーから浮かび上がります.苦しみは,人によって全く異なり,またあまりに各人の生と幸福とに密着したものである.そうした事柄も,映像と台詞による物語として再現すれば,別の世代,別の社会の人々に理解してもらえる.こうした姿勢は,基本的に成果を上げていると思います.事実監督は,例えば歴史の過ちをあげつらい,誰彼を批判したりはしません.こうした抽象的な視点をとらず,あくまで清作とおかねはじめ,小さな山村の人々の不幸と幸福を撮りつづけます.  性愛は,あるときは男性(女性も)の下品な眼差しとして,またべつの時は,そういった世間から逃れようとするかのように,暗がりの中で絶望的に燃え上がる男女の交わりとして描かれますが,こうした特徴はほかの増村作品でも見たことがあります.人物を,顔からアップで,やや斜め上から捉える手法が,カメラワークとしては目につきますが,心理描写に効果を発揮しています.本格的な映画音楽にも感銘を受けるのですが,少し単調さが目につきます.若尾文子は感情表現の幅が大きくなく,個人的にはあまりかわないのですが,虐げられる女を演じる彼女は,たしかにほかの女優に真似のできない魅力を発揮する.田村は一本気な青年を好演.

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