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(1973)

監督
新藤兼人
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3.90 / 評価:10件

蓼科山へ登れ 女性が彩る漱石の『こころ』

  • 真木森 さん
  • 2010年3月20日 15時12分
  • 閲覧数 864
  • 役立ち度 10
    • 総合評価
    • ★★★★★

 相当前の話ですが、深夜の時間帯で夏目漱石の『こころ』を映画化した作品が流れて、10代の感性に深く突き刺さった記憶があります。原作は高校国語で習う以前から何度も読んでいて完全周知の物語でしたが、それ以上に私にはあの時経験した映像が忘れられなかったのです。しかしATG映画の宿命かほとんどメディアに再登場することがなく、ずっと後になってそれが新藤兼人監督の『心』という作品だということも判明、曽根中生監督『不連続殺人事件』と並んで私にとっての「もう一度見たい、失われた邦画」の一つでした。それが先日3/15スカパーe2にて突如放映! 4半世紀ぶりの再見です。やっぱり良かった。いかにもなATG映画で登場人物も極端に少なく、無音に人物達の声や主人公のモノローグがかぶり、凍り付いたような独特の映像空間、語り口。主人公の先生K役の人は「おお! NHK大河ドラマ『黄金の日々』で足利義昭をやってた人じゃないか」(私の評価基準も随分狭隘ですね)と驚きの発見。調べたら松橋登さんは元々劇団四季の有名団員で、現在も舞台を中心にご活躍とのこと。自殺していくS役の辻萬長さんは角川金田一シリーズの刑事役で何度となく見ていた方でした。そして乙羽信子が出ていたというのに改めて感動です。新藤兼人監督作だから出演は当然なのですが、最初に見た時にはこういう大女優が出ているだなんて全然分かってなかったなあ。映画の物語の詳細は忘れていましたが、それでも車窓から深緑を眺めるオープニングから転じてKが下宿に訪れるくだりは「あれ、「私」は素通りして第三部に特化した映画なんだ」と初めて見た当時から印象的だったので良く覚えてました。それにこの映画と言えば「その場で土下座して謝りたかった」をもう一つの自我が実行するカットバックでしたから再見して懐かしかったです。見直していけば初視聴時の記憶がぼろぼろと再現していきます。やっぱり思春期に深く刻まれたものは一生涯の価値なのだなと思わされましたよ。
映画は原作をなぞってはいますがまた別の色調を帯びています。一番大きいのは奥さんM夫人の存在感です。奥さんは全ての顛末を知っているどころか、Sを同居させる時にきっぱり拒否していたことから「そうなってしまうであろうこと」すら前もって全て見通していたかのように描かれます。そして終始Sについては冷厳な視線で対していますが、優柔不断ですらあるKにはフォローをし苦しげな時は不安そうに見つめている。そしてあの屋敷の中でKを誘導し、ライバルたるSを消していく大いなる意志を発揮している様にも見えるのです。お嬢さんI子は現代風で(デザインスクールに趣味で通っている)異性との接し方も敷居が低いように描かれていますが、母親譲りで2人の男性に決断を迫る強さを時折見せます。それは例えば度々登場する「お茶にするか紅茶にするか」という問いかけに顕著ですが、究極は山に登るか否かでのSへの詰問です。「蓼科山に登りなさい!」ときつい調子でバスに乗り込み去っていく。それは「私を手に入れてみなさい」ということの暗喩。そして恐らくは男達が逡巡を乗り越えて自分をもらいに来ることを望んでいる。だから石鹼を渡したら唐突にKに口づけされてその後ピアノを弾くのですが、これは蓼科の草むらでも同様にされて「幸せだわ」とつぶやくのと同期です。Sはそれを乗り越えられなかった。一本の錐を手に入れるためには足下が崩れようとも必死に道無き山を登らなければならなかった。それはKと違って財産のないSに出来る1つの決断。しかし彼は自分でも言うとおり「結局俺は弱かった」「もう良い、まだ次がある」と先送りにしたために、結局自分は出口のない袋の中から出られないことを悟った。そしてKも心が腐食していく。彼は叔父に裏切られた経験から父親譲りの財産を忌むべきもののとして考えていますが、間違いなくそれこそが奥さんからの信望の礎だったのだし、Sにとっては埋められないアドバンテージだった訳です。しかし心の腐食はそれでは救えない。あの時のSが諦めた蓼科山を必死に登り、一個の人間としてI子を手に入れる権利を得なければそれは止められない。そしてそれがエンディングに収斂しています。
本作の関連文献はほとんどありません。作品と自分の鑑賞眼が全てで、10代の頃とはまた違った力を絞って食い入るように見ました。今まさに2千字ではとても語り得ない思い・分析にあふれています。この物語は「あの頃輝いていた我々、そして今となっては失われてしまったあの日々」の切なさ、寂寥、悔恨を描いた名作だし、新藤監督が漱石の名作を70年代に映画化したのにも理由がありそうです。でもそれは何かの機会に原稿化します。まずは本作を再び蘇らせてくれたスカパーe2日本映画専門チャンネルHDに感謝の意を捧げます。

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