全身小説家
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作品情報上映スケジュールレビュー

あらすじ・解説

解説:allcinema(外部リンク)

本編配信

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作品レビュー(13件)

知的16.7%悲しい12.5%恐怖8.3%不思議8.3%絶望的8.3%

  • kaz********

    3.0

    全身小説家とは全身全霊を小説に打ち込んだという意味か

    1989年にS字結腸癌の手術を受け、1992年5月に亡くなった小説家・井上光晴の闘病記録を追う中で、彼の文学論を伝習会や講座を通じて紹介したドキュメンタリー映画。彼の壮絶な闘病には驚嘆するが、文学論には必ずしも首肯できない。 彼は伝習会を通じて女性に凄く人気があったことがわかる。女性を口説く殺し文句が上手で相手を幸せにするような力を持っていたようだ。 S字結腸癌が肝臓に転移し、その切除手術をカメラが克明に追う。開腹から臓器患部を取り出すシーンは正視するのに勇気がいる。よくもまあ、カメラをOP室に入れさせたなと思う。 文学論で云えば、「小説は欲望のリアリズムだ」「文学は自分が立っている所から始まる。何かを変え、もう一つの自分を創る」「自分が体験した事実を繋ぎ合わせても、恥ずかしい部分を隠したらそれはフィクションだ」などと説く。 後半、彼自身が書いた自譜を事実と照らし合わせる作業があるが、いくつかの虚構がある。出自を中国の旅順で生まれたと言うが、佐世保で生まれている。父は中国で行方不明になったという部分も、父と母と妹と4人で佐世保で暮らしていた。中学を受験出来なかったという部分も、同級生は試験会場にいたと証言。嘘の最たるものは、崎戸にあった遊郭に遊びに行ったら、帰りに初恋の朝鮮人少女が笑っていたというもの。評論家の埴谷雄高氏は彼のことを『嘘つき光ちゃん。嘘をつかなければ生きて来られなかった』と評する。 母親は二人の子どもを捨てて出て行ったが、同じ体験をした瀬戸内寂聴氏に「捨てるなら最後まで捨てろ」と怒るが、あれは井上の本心だったろうか。 文学は、事実であれ虚構であれ、人を感動させたらそれでいいのだと思う。

  • aco********

    4.0

    嘘つきみっちゃんの誠実さ

    井上光晴、こういう「作家」然とした人は少なくなった。 人生そのものをフィクション、虚構として生きる。 そういう者は、えてして誰にでもサービス精神旺盛で節操がなく、 その魅力にコロッと行かされてしまう人は一定数いる。 (「彼は三割バッターなんだ。10本打って3本は必ず当てる。でも、全体で見れば、上位にいるんだ」by埴谷雄高)。 映画の中盤から、「あること」が明るみになる。 監督原一男は、どこまで知っていて撮りはじめたのか気になる。 完全なる共犯者なのか、それとも撮っているうちに分かってきたのか。 とはいえ井上光晴の人生は徹底している。 フィクションを生き、フィクションを書き、フィクションを説く。 彼は「フィクションの根底はリアリズムにある。欲求とリアリズムの関係が大事なんだ」と言う。 「自分の中にもうひとつの自分を発見する、更にそのもう一つ奥の自分を発見する、そうやってどんどん発見していく、作り出す。そうやって関係を変えていかなければ。変えることができないのであれば、その関係を捻じ切るんだ」。 「上品に、しかも激烈にやらないと。年取れば何をしてもいい。世界と自分の関係を変えること。やりたいことを全部やったほうがいい。それが人間が生きるってことなんですよ」。 「自分のための表現と、人のための表現、それが統一されないといけない」。 「嘘つきみっちゃん」は、いつから、何故こうなったのか。 「作家」をこころざした時点で、自らの人生をもフィクションとして加工したのか。 いずれにせよ、そうせざるをえない過剰さが彼の中にあり、それをどこまでも貫き通すということが彼にとっての誠実さであり、優しさでもあったのかもしれない。 そうすることでしか生きられない人間だったのかもしれない。

  • hra********

    5.0

    ネタバレ人生そのものが小説

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • yab********

    4.0

    突き動かされる欲求そのもがリアリズム

     井上光晴という小説家は知らなかったし、小説も読んだことがなかった。どんな作風かも知らない。だから彼に対する先入観もない。真っ白である。  真っ白だから、普通は「ふーん、こんな人なんだ」と悠長に構えて観るものだが、この井上光晴のドキュメンタリーは違う。観始めてからものの5分で彼の世界に引き込まれてしまう。彼という人間を前からよく知っていたような気になる。会ったその時の印象が、付き合ってからも少しも変わらない。彼の人柄はそんな気にさせてくれるである。  歯に衣を着せぬ口調で、熱情にうながされるように生きた彼。演出も脚本もいらない。彼そのものが、ひとりの人間の現実であり、虚構である。家族のきれいな部分しか描いていない、NHKの大江健三郎のドキュメンタリーとは完全に異質である。小説家の醜い部分を絶対出さずに、バランス感覚を売りりものにしている、村上龍や村上春樹とはもっと異質である。  そもそも小説家なんて、現実と虚構の間を行き来する浮遊人である。村上龍や村上春樹はカッコつけてるだけである。不健康で破滅的な小説家のイメージをぬぐいさろうと無駄な抵抗をしているだけである。龍も春樹もことさら健康的な小説家をアピールしている。テニスの得意な龍であり、早寝早起きの春樹であり、そして、禁酒禁煙の健三郎である。  井上光晴はただの酔っ払いである。スポーツ音痴である。貧相な体躯である。身だしなみも小奇麗とは言い難い。でも一応”先生”だから、弟子みたいな者たちは群れてくる。そのメンバーのちょっと変わったおばさんたちにもててしょうがない。でも生来の嘘つきである。  彼はガンである。S字結腸ガンが、肝臓、肺に転移して余命いくばくもない。壮絶な手術のシーン。彼のガンで冒された肝臓が大写しになる。  身体の奥までさらけだす彼がさらけだしたがらないもの。それは彼の上品さである。豪放磊落のように見せかけて時折みせる彼の気弱な表情。そこに彼の上品さが覗える。上品さを激烈に変える変則ギアが、実は彼のバランス感覚なのかもしれない。  整頓されていない彼の家のリビングルーム。彼が書物を散らかして、奥さんが掃除をしてもしきれないという感じだ。奥さんは昔ながらの奥さん。飲んでる酒も昔ながらのウィスキー。こんなもんだよね、人の生活なんて。彼は嘘つきかもしれないが、龍や春樹のスマートさのほうがよっぽどうそ臭い。人間なんて所詮、きれいなものではない。そこを出発点としてどう生きるかが重要である。彼の散らかった家と、そこに集まるスポーツが苦手そうで頭でっかちの男たちと、センスの悪いドレスに身を固めた地味なおばさんたち。でも、とても人間臭さが充満する彼のリビングルーム。 「欲求とリアリズムの関係をどうするか。それが小説の技術なんです」。  井上光晴はこう語る。彼の場合、突き動かされる欲求そのもがリアリズムだったような気がする。そこが彼の人望である。”人自ずから蹊を成す”の世界である。  彼の人望を燦然と光らせる人。その人は「死霊」の埴谷雄高 。ベールを脱いだ彼の肉声が心を打つ。彼がなにげなく話す言葉のひとつにとつに、井上光晴に対する友情がひしひしと伝わってくる。

  • mms********

    5.0

    ドキュメンタリーかくあるべき

    とにかく公開当時やたらと評価の高かった作品。だいぶ遅れたかようやく鑑賞した。 がんと戦いながら、燃えるように生きることを貫く作家の闘病記かと思ったら、全然違っていた。原監督もそういう映画を作るつもりは全くなかったと後日語っている。 まず、手術の場面が克明に映像に捕らえられている。切り取った肝臓やその重さまでご丁寧に収められていて、血の気が引きそうになる。本人不在の診察室で、医者にがんの進行状況をインタビューするシーンにも、ちょっと驚いた。これらのあまりお目にかかれない場面が頻出するのも、対象者本人からスタッフが信頼されていて、全てをまかされていた証明だろう。ドキュメンタリーを成功させる重要な要素だが、そのへんも抜かりがない。 シンプルでコミカルな音楽など、その後ドキュメンタリーのセオリーとなっていく演出が散見され、原監督が最先端を走っていたことが良く分かる。 だが演出テクニックに話を絞ってしまうと、この映画がいか凄いかが伝わらなくなってしまう。中盤以降に姿を現す、虚構と現実のせめぎ合いがこの「全身小説家」の最大のストロングポイントだからだ。 人間は自分の都合のいいよう記憶を変えてしまう。昔の思い出を友達と語り合うと、どうしても展開が食い違う場面が出現してくるのは誰もが経験があるだろう。デジャブは殆どが記憶の改変によって起こるものらしい。 よくあることなのだが、井上の改変ぶりはすさまじい。初恋の人との思い出や、中学入学に関する顛末がことごとく事実と異なることが判明してくる。 井上も人間が勝手に記憶を変えしまう現象を理論として語っている。自分の略歴を語るときに、自分に都合の良い出来事をピックアップしてまとめて、聞かれたくない個所はそぎ落としてしまう。それが全て事実だったしても、そぎ落としを行った時点で、全てフィクションになってくる。 非常に納得できる解説だが、井上の口から出てくると開き直って自分を正当化しているように聞こえてしまう。 マイケル・ムーア監督の作品が公開されるたびに”これは「映画」なのか「ドキュメンタリー」なのか”という議論が噴出する。どこまで演出が認められて、どのくらい客観的であればいいのか。フィクションとノンフィクションの境目。これはもう永遠のテーマだ。 ところが、井上の語る”事実”はねじれ曲がっているのだが、この映画は語られていることが実際に起こっていることとかけ離れている真実を、実に正確にに捉えている。 人間は自分で思い描いて、虚構と現実を融合させて人生を作り上げてしまう生き物だ。その人間を映像に収めた場合、そこに映っている物事が虚構なのか現実なのかなんて、意味をなさなくなってしまうのではないか。ドキュメンタリーの世界で、些細な演出を”やらせ”と揶揄される偏見と長い間戦ってきた原監督が、たどり着いたひとつの回答のように思われる。 記録的な意味だけにとどまらず、ドキュメンタリーがなぜ観る者に感動を与えるのか。その理由も、この作品には深く刻み込まれているはずだ。 まだ「ゆきゆきて、神軍」は未見だが、観てみたくなった。

スタッフ・キャスト

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基本情報


タイトル
全身小説家

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製作国
日本

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公開日
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