デルス・ウザーラ

DERSU UZALA

161
デルス・ウザーラ
3.9

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作品情報上映スケジュールレビュー

作品レビュー(59件)


  • エル・オレンス

    5.0

    ネタバレデルスの生来の素朴さと心優しさに感動。

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • kih********

    3.0

    こんな寒地で生きているだけでも尊敬です。

    最近、ナヨナヨした映画が多くて、時には男の臭いがする映画を見たくて、黒澤映画を手にした。シベリア沿海地方を舞台にした探検記録というから、ちょっと良さそうじゃないか。ところが誤算があった。今、こちらも二十四節気の「小寒」「大寒」期。こちらなりの「最強寒波」のただ中にある。時期が悪かった。寒がりの私にはシベリアは堪える。 先住民の猟師デルス・ウザーラは、日本の軟弱な寒がり老人とは対極の、男の中の男である。一種の畏敬の念をもって拝見する。 解説やレビューで、「素朴」「自然」「人間の純粋さ」「自由人」、とか、「現代人が無くしてしまったもの」「人間の純粋さ」等々、正しく立派な言葉で評されている。同感ではあるが、私などは単純にデルス・ウザーラ氏の「強さ」に憧れる。 こちらの今日の外気温は1度。彼には茹だるような暑さだろう。私は室内温を23度にして、シベリアの彼の動作・行動を見つめるだけだった。敬礼。

  • new********

    5.0

    人生の哲学書

    デルス・ウザーラ。 なんと魅力的な人物か。 鑑賞したすべての人の心に残るであろう 万物を自分と同じ人間として接する世界観。 太陽=一番えらい人(この人が死ぬと皆死ぬ) 月=二番目にえらい人 火、風、水=三番目に強い人 では、デルスにとって宇宙とは? と、ふと思った。 すべてを包み込む永遠の人か? 自然の驚異を知る冬 再会とともに人間の脅威も知ることになる春と夏 写真で綴られる秋には、小さな幸せを感じた。 月日が流れても、 自然・全ての生命と共存する心は変わらない。 人間のエゴにさえ疑う心を知らない。 そんな彼に変化が訪れたのは、 森の掟を破ってしまった(虎を殺してしまう)ことに対する 自分への苛立ちと、老いを悟った時。 森で生きることをあきらめ、 街での暮らしをスタートさせるが、 当然のごとく、自分の居るべき場所に 戻ることを選択する。 ありのままの自分、自分らしく生きることの 大切さを教えてくれた。 生きるとは? という問いに 答えを導いてくれる人生の哲学書。 デルスの言葉すべてに魂が宿り、 かけがえのないもののように 光輝いていた。 ラストは、文明社会のわずかな関わりが 大きな悲劇を生む。 カピタンにとってデルスは、 ‘親友’以上に“運命の人”だったに違いない。 静かな幕切れは、なんとも切ない。 傑作だ。

  • bakeneko

    5.0

    ネタバレ狐も虎も “あの人”と呼ぶのね!

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • スーザン

    4.0

    “カピタン!”

    ロシア極東へ訪れた探検隊の隊長と、シベリアの森の中で生活するデルスの出会いを通して、厳しい自然環境や友情を描いた黒澤作品。 森での出会いをきっかけに、いつしかお互い尊敬し合い友情を育む二人であるが、探検隊は国家命令での未開の地への開発、平たく言えば侵略であり、デルスは生活の土地を奪われる側である。 だがここに出てくる探検家は、デルスのおかげで任務遂行の難が軽減され、命まで助けられる。 一方デルスは、生きるためにただ淡々と森で生活するのみである。 そんな皮肉めいた構図が、まずオープニングシーンで示される。 物語の数年後、隊長は友人を埋めた土地を訪れる。 だが、そこはもうすでに開発が進んでおり、当時の森の様子も一変していたのだ。 そしてそういう人間関係もさることながら、黒沢監督の描く厳しい自然がより一層胸に迫る作品でもある。 二人が隊とはぐれてしまい吹雪の中デルスが懸命に草を刈り取り簡易テントを仕上げるシーンは、これでもかと言うほどカメラが回され、一番印象的なシーンであった。 ”

  • pin********

    4.0

    ネタバレルーカスの黒澤好きを再認識。

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • mar********

    3.0

    ネタバレ幸せとは何か、老いとは何か

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • par********

    3.0

    ネタバレありがとう、隊長

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • qua********

    3.0

    デルスと隊長の絆

    う~ん、個人的には「アギーレ 神の怒り」っぽく、破壊的で狂気じみた演出が付け加われば、もっと面白みが増したと思うんだけどなあ。 ん?もしかして素っ頓狂な事を言ってる? で、本題ですが、良い作品ではあるけど個人的には、ピンと来ない友情物語でしたね。 一体全体、何を訴え掛け、何を伝えたかったのか、心に響くモノがなかったかな、と。 テーマ性の乏しさを強く感じてしまったんだよね。 ラストにしても、もう一工夫凝らしてさえいれば・・・。 個人的には全然、盛り上がらずに終わってしまったね。 黒澤作品は何本か観ていて、どれも面白かったけど、この作品に関しては、ストーリー性からしても今一つの出来映えだったかと。

  • mnh********

    3.0

    演出がくさい

    何の下知識もなしに観たらソ連映画って日本人のタイム感に似てるな、、 と思ったら黒澤作品でした。 でもなんか演技とか画面演出がくさいんですよね。 セリフの間の取り方とか、NHK教育の子供ドラマ見てる感じ,,,。 テーマにしても妙に公営臭いというか、お品良すぎるというか ソ連のプロパガンダ映画かと思った。(実際にそうなのかな) われらがロシア国民は誰ともけんかしない。 みんな仲良しってことでしょ。

  • tok********

    2.0

    正直、観ても観なくてもよい作品です・・。

    今までの黒澤作品と比較すれば、ちょっと路線が違う作品です。 主人公"デルス"との友情を熱く描いているのですが、単調な進行で黒澤映画にしては珍しく退屈な気持ちになりました(笑) 正直、観ても観なくてもよい作品です・・・。

  • アニカ・ナットクラッカー

    5.0

    デルスは永遠の大地に旅立ったのだ

    黒澤明監督の映画レビューを書くのは「羅生門」「蜘蛛巣城」に続いて3作目だ。今回取り上げる『デルス・ウザーラ』は1975年のソ連映画。この年のアカデミー外国語映画賞を受賞している。製作国であるソ連はすでに崩壊してしまったが、永遠の輝きを放ち続ける不朽の名作だ。 1910年、新しい村が建設されているシベリアの森林に、アルセーニエフ(ユーリー・サローミン)という男がやって来る。3年前に埋葬した親友の墓を探しに来たのだが、目印となる松の巨木は伐採されており、墓は見つからなかった。親友の名はデルス・ウザーラ(マクシム・ムンズク)。物語は1902年にさかのぼり、二人の出逢いと友情、そして別れが描かれていく。 映画を観ていて、ふいに遠い記憶が呼び覚まされることがある。僕が小さい頃、子供向けの「山男デルスウ」という物語を読んだのを思い出した。たしか購読していた月刊誌「学研の学習」に載っていたと思う。 鮮明に思い出したのが、主人公とデルスウが荒野で進退窮まる場面。映画では前半(第1部)のクライマックスとなる。帰り道が分からなくなって日没が近くなり、このままでは凍死してしまうと焦る主人公に、デルスウが真剣な表情で「だんな、よく聞くだ。よく聞くだぞ」と告げる。 「アシを刈るだ。グズグズしちゃなんねえ」。理由も分からずアシを刈り始めた主人公に、デルスウが「やれえ、やれえ。早くだあ!」と大声で叱咤する。慣れない重労働と寒さで疲労困憊する主人公。気を失いかけたところで、高く積み上げたアシの下に潜り込む。そこはベッドの中のような温かい空間になっていた。自然を知り尽くしたデルスウの知恵で命を救われたのだ。 僕が思い出したのは以上の場面である。セリフまで覚えていたから、よほどのインパクトを受けたのだろう。映画で分かったのが、主人公が探検家でシベリアの地図作りを目的としていること。二人が遭難したのが凍結したハンカ湖畔であったこと。簡易テント作りの際は、主人公が持っていた三脚台を支柱にして、上に銃やロープをかぶせてアシの飛散を防いだこと、などである。 この場面の迫力は圧倒的だ。山男デルスは残った足跡を見て、人数や人種などを言い当てるホームズ並の観察力を持っている。しかし凍った大地に足跡はつかず、地吹雪はわずかな痕跡まで消し去ってしまう。凍った川は氷が割れる危険があるから渡れない。次第に強くなる風の中で、太陽が弱い光を放ちながら西に傾いていく。この場面を撮影するために、一体どれほどの労力をかけたのだろうか? 『デルス・ウザーラ』の物語は、共産主義の時代においても愛され続けた、ロシアの国民的な文学だったようだ。ちなみに僕が脳内で想像していた山男デルスウは熊のような大男だったが、映画のデルスはアジア系の小柄な男だった。黒澤映画の常連だった志村喬をイメージしたという。 映画は前編と後編の2部に分かれ、第1部は1902年(八甲田山の大量遭難と同じ年だ)、アルセーニエフとデルスの出逢いから別れまでを描く。大自然の厳しさと冒険のロマンを味わえる章だ。かけがえのない親友となった二人が線路で別れるシーン、デルスの「カピターン!(隊長)」という叫び声が忘れられない。 そして第2部は1907年、二人の再会からデルスの死までを描く。ふたたび輝かしい冒険の日々が戻って来るが、クロテンを撃って得た現金を悪い商人に持ち逃げされたり、凶暴な匪賊が跋扈したりと、次第に暗い影が周囲を覆い始める。 後半のクライマックスは虎と対決するシーンになるだろう。向かってきた虎をやむなく撃ってしまい(手負いの虎は死ぬまで走るというセリフが悲しい)、虎の霊に復讐されるという恐れに取りつかれ、次第に気難しく変わっていくデルス。間もなくあれほど得意だった射撃の腕が衰えてしまう・・・。 思い出したのはもう一つ。小さい頃に子供向けの「ロシア文学全集」みたいな本を読んだ記憶があり、その中にも「山男デルスウ」が収められていた。おぼろげに覚えているのが、デルスウが身体の衰えのため森で生きていけなくなり、主人公と一緒に町で暮らし始める。主人公が水道料金を払っていると、デルスウが「なんで水に金を払うのか?」と怒る場面があった。 町の暮らしになじめなくなったデルスウは森に戻っていくが、何者かに殺されてしまう。デルスウを最後に目撃した人の話によると、森に帰っていく彼はとても楽しそうに見えたと・・・。映画を観て、小さい頃に読んだおぼろげな記憶が補完されていった。 アルセーニエフは視力の衰えたデルスのために、別れ際に最新式の照準器付きの銃をプレゼントする。「これなら目が悪くても外す心配はない」と。しかしそれが仇になってしまう。その銃を狙った物盗りに殺されてしまったのだ。デルスの墓に雪が降りしきるラストシーンは、黒澤監督の次作「影武者」で旗指物が水底に沈むラストを思い出した。

  • pop********

    4.0

    無題

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  • mathitomi

    5.0

    交差する価値観が出会う世界

    文明の中で生きてきた人にとっては、自然と調和しながら生きたものの言葉というのは一種異様な言葉と映るかもしれない。 主人公デルスの発言は、足るを知り自然に逆らわず生きた猟師が体験してきた森の教えが根底にあるのだろう。 隊長をはじめとする探検隊一行は、デルスのシャーマニズム的な全体感に初めは面食らうものの、やがてその奥深さを知るにつれて徐々に親交が深まっていく。 文明世界と未開の地で生きる価値観が交差し、それぞれの価値観を問われているようなそんな映画で、見ている側も二つの狭間で心が揺れ動きます。 「いい黒澤映画あるよー」 と友人に勧められましたが、手にとって見て本当によかった!と思えるそんないい映画でした。

  • d_h********

    5.0

    ネタバレ黒澤のカラー映画では最高の1本

    このレビューにはネタバレが含まれています。
  • e_s********

    3.0

    厳しい自然と優しい人間

    20世紀初頭、ソ連、未開の森… ガサガサ、ガサガサ… 何事!? 熊か!? と、ソ連の兵隊さんたち、慌てる。 「わし、人間。 わし、人間」と、ひょっこり登場、デルス爺さん。 その風貌からして、森の熊さんなのだが、この御仁がソ連の小隊(地質調査が目的)を、先導しながら、探検が始まる! ひたすら、探検、探検なわけだが、自然の厳しさをデルス爺さんの人柄が場を和ます。 二部に入り、一頭の虎を殺してしまう… そこから、少しずつ雰囲気が変わってくる… 老いがきたのだ… 隊長がデルスを引き取るも… 黒澤監督が70年代当時のソ連へ行き、作った作品。 物語の中に、特に何かあるわけではない。 ひたすら未開の土地を探検するだけで、面白いとは言えないが、訴えたい事はわかる… 気がする^_^; 自然との格闘は、視線釘付けになった。 自然と共存しながら、人間は生かされている…

  • pin********

    5.0

    西部劇のスピリッツも感じました。

    学生時代以来久しぶりに見ました。 学生時代に見たときは、「これが黒澤か?」と違和感を感じたものですが、今見るとまぎれもなく黒澤だという事が感じられます。 黒澤と言うと、『野良犬』がそうであるように、ぎらぎらとした真夏の太陽のイメージがあるのですが、北の大地や雪に閉ざされた舞台もまた黒澤らしいではありませんか。 黒澤が若い時から親しんだロシア文学の影響もあるのでしょうか、厳寒のシベリアというのは、黒澤の作品によく合っています。 ドストエフスキー原作の『白痴』も北海道の雪に埋もれた町が舞台でした。 黒澤によって映画化されることはありませんでしたが『暴走機関車』も、北の大地を爆走する機関車が舞台、『夢』にも雪山が描かれていましたっけ。 実は極端なものならば、暑さも寒さも同じなのかもしれません。 極限の中におかれた人間の姿を描くのに、状況設定だけでなく、自然環境まで極限においてしまうのが黒澤なのでしょう。 最初に見たときは、自然の中に生きるデルス・ウザーラと誠実なアルセ-ニエフとの交流を、美しいロシアの大地の中で描いたヒューマンなドラマかと思っていたのですが、第1部では強靭な体力と自然の中で生きる知恵を持つ父のような存在デルスが、第2部で次第に衰えていく姿を見せるあたり、やはり黒澤が執拗に描き続けた師匠と弟子、父と子の物語がここでも描かれているようでした。 しかも、本作を境に、強かった父は次第に衰えを見せ、残されたものはそれを引き継ぐのではなく、諦念の境地で見つめるだけになっていきます。 デルスの死を見送るアルセーニエフはデルスの自然界での知恵を引き継ぐことはできず、都会に住む官僚で終わることになりそうですし、『影武者』の盗人は、所詮武田信玄を引き継ぐことなどできませんでした。 『乱』でも、衰えた父は息子たちに何も託すことが出来ずに狂気のなかに滅んでいきましたっけ。 悲しいことではあるですでが、芸も技も引き継がれるものではなく、自らの力で生み出すものでしかないのでしょう。 それを諦念の境地で見つめているような作品でした。 黒澤はハリウッド進出こそ失敗したものの、ソビエト映画だからこそ、本当の絵黒澤的映画をつくりあげることが出来たのかもしれません。 映像は時に雄大なシベリアの大地をリアリスティックに、時に幻想的に描いています。 音楽も、はじめ日本人作曲家によるものかと思っていたくらい、黒澤映画に寄り添っていました。 特に幻想的な調べなど。 いかにソ連側スタッフが黒澤の意を汲んで製作したかがわかる作品でした。 なお、ウスリー地方はシベリアの極東地域。 中国とも接しているので物語には中国人も登場してきます。 なにやら西部劇の白人とインディアンのような関係も見られるところが面白いではありませんか。 もしかしたら、黒澤はこの作品を作りながら西部劇のフロンティアスピリットと重ね合わせていたのかもしれません。 しかも、有色人種の深い知恵を描いているところは、新しい西部劇の時代を先取りしていたようでもあります。

  • 菊田浩一

    4.0

    タイトルは人名

    タイトルだけで選べないと思う。淡々と表現する内容に思わずひかれる。さすがに黒澤さんだ。観るべき映画の1本だ。

  • kyu********

    4.0

    ロシア人監督には撮れなかった作品

    アムール川流域の北方民族に興味があって いろいろ調べていた際に知った、この作品。 へえ、世界のクロサワが「デルス・ウザーラ」映画化したの? どれくらい当時の現地の空気を伝えているのか、 ドキドキしながら鑑賞。 現在、私たちが安易にロシアのものだと思いがちなこの土地は、 もちろん、18~20世紀に、ロシア人が侵略(=開発)した土地です。 もともと住んでいたのは、ウデヘとかナーナイ(ゴリド)など、 それぞれ言葉の異なる、いくつかの狩猟民族。 彼らは、日本におけるアイヌと同じ存在で、 アイヌが明治維新以降、北海道の土地を失っていったように、 彼らもまた、ロシアによって、独自の文化と言語と土地を失っていくのです。 本作の舞台は、まさにロシアが侵略を進める20世紀初頭。 本作の語り手アルセーニエフは、善意の人ですが、 客観的には、ロシアの兵隊を率いて、 侵略の先兵を担ぐ役割を果たした人物の一人です。 デルスはゴリド人なのですが、彼は一切自分の言葉を話さず、 アルセーニエフたちに片言のロシア語で話しかけます。 ロシア人たちはそれを当然だと思っていて、 デルスの母語には注意を払っていません。 弱い側は強い者の言葉を必死で覚えるけれど、 強い者は弱い側の言葉を覚えようとはしない。 こうやって侵略される側の言語は失われてしまうのです。 アルセーニエフは良心的な人物なので、 自然と生きてきたデルスの知恵に敬意の念を抱きます。 しかしそれが、デルス個人への敬意にとどまっていて、 デルスをデルスたらしめた、 ゴリド人や北方狩猟民族全体への敬意につながっていかない。 これが当時の良心の限界です。 デルスは、「天然痘で妻子を失った」と言います。 おそらくその天然痘は、移住したロシア人が持ち込んだもの。 そのことにアルセーニエフは気づいていませんが、 黒沢監督は意図的にそう匂わせています。 デルスの家族や、ゴリド人コミュニティが健在であれば、 デルスは視力が衰えても、森の中で余生を過ごすことができます。 しかし家族のいないデルスは、 一人で猟師として生きていくしか道はなく、 視力が衰えれば、その道も絶たれてしまうのです。 ハバロフスクだって、ロシア人が侵略拠点として作った街。 街ができる前は、原野を獣が駆け巡り、 アムール川で漁をする川の民と、タイガで猟をする森の民が、 交易をする拠点となっていたことでしょう。 「街で一緒に暮らさないか」と誘うアルセーニエフの善意は疑いませんが、 そもそもそこが、デルスが暮らせぬ街となっている事実にこそ、 北方狩猟民族の置かれた悲惨な境遇が、うかがい知れるというものです。 デルスを埋葬した墓は、数年後に訪れてみると、 ロシア人によって開墾され、跡形もなくなっている。 冒頭のこのシーンの重みは、ラストに分かります。 土地の記憶を持たぬロシア人が、ずけずけと先住民の土地を奪う罪。 その重みを、アルセーニエフはこの時初めて理解したでしょう。 世界のクロサワは、その罪を静かに告発しているのです。 やはり、ロシア人監督には撮れなかった作品といえます。 侵略者=ロシア人と、被侵略者=デルス。と位置付けると、 ロシア人がデルス目線に立つことはたぶん無理でしょう。 両者のどちらでもないクロサワだからこそ、 中立的な描写が可能だったと思えます。 さて、ひるがえってわが日本。 明治維新以降の北海道を舞台に、 侵略者=ヤマトと被侵略者=アイヌを登場させて、 日本版「デルス・ウザーラ」が撮れるか? 真面目な農耕民族のヤマトが北海道の原野をどんどん開墾し、 その結果、アイヌが狩猟採集や漁労を営む土地が奪われる。 その罪を静かに告発する作品が日本で作られてこそ、 日本人には良心があると胸を張って言えると思います。

  • die********

    5.0

    昔、日本にもデルスがいた

    昭和30年代までは、デルスのような人は日本にもたくさんにいました。 私が学生時代に、その末裔の人にかろうじて会ったことがあります。 大豆と塩だけ持って、山の中に入って、腰の蛮刀(山ナタ) だけで自給自足していました。 冬は猟師、それ以外の季節は炭焼きです。 猟は鉄砲ではなく、ワナです。 目がいい、耳がいい、鼻がいい。 手先が器用で、小道具はすべて自作で マムシは臭いで見つけていました。 (ちなみにマムシは精のつくごちそうね) 山の神様には敬意を払い、たとえば 絶対に川に直接小便するな、 と私に教えてくれました。 戦前の日本人は、大多数がデルスだったので 戦争も貧弱な補給でも強かったし、 戦後の復興も、何もない所から立ち上がれたの でしょうね。 木炭の衰退とともに、デルスは絶滅しました。 黒澤監督は、当時、デルスのような人達が 日本から絶滅していくのを映画に残したかった のでは、と思います。

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