作品レビュー(1件)
- byu********
4.0点
久しぶりに岩井俊二「ルナティックラヴ」を観た。 ストーカーという言葉が本格的に輸入される直前の1994年の作品である。 カリフォルニア州で初めての反ストーキング法が制定されるのが1992年。 その年に日本ではストーカー像のプロトタイプとも言える「冬彦さん」が生まれている。 とは言え、冬彦さんはストーカーというよりマザコンと自己愛性人格障害のミックスであり、対象との関係の密接さや、その動機や原因などもきっちり過去のトラウマが描かれることでシンプルな人間像に落とし込まれている。 それでも当時のお茶の間においては充分に不気味で衝撃的なキャラクターであり、社会現象を巻き起こし次の「ストーカーブーム」を準備したのだ。 そしてここでひとつステージが動くことになる。 この作品の主人公(トヨエツ)は端的にはパラノイド系の関係妄想者であり、対象とは一切の面識がない。 それまでも面識のない対象に対するストーキング的な行為を描いたスリラーはあったが、 「ミザリー」「怪物の目覚める夜」などどちらにおいても対象は小説家やDJなど有名人であった。つまりはねじれた崇拝心を元にした、まだ理解可能な心理といえただろう。 しかしこの対象は「ミスバナナコンテスト」だのいうローカルなミスコンの優勝者ではあるものの単なる一般人であり、それこそがそれまでの古典とは一線を画す異常さを醸し出していた。 物語展開としても、対象がストーカーを「知らない」というオチは最後の最後まで明かされず、一貫して恋愛のもつれの果てのストーカー化、というミスリードが続く。 岩井的映像美と陳腐なメロドラマという組み合わせは予想以上に相性が良く、そのまま作品が終わってもきっと不自然では無かったであろう。 ところが、作中ずっとうっすらと流れていた不穏な違和感が最後の最後で顕在化する。 あれから幾星霜、現実において人が殺されることに理由すらいらなくなった。 ストーカーは決していなくなってはいないだろうが、ストーカーという言葉はあまり聞かなくなった。 SNSなどの普及により、言葉は悪いが当時よりずっとストーキングしやすくなったのにも関わらず、である。 関係性がリアルタイムでどんどん可視化される中で、そこに妄想が入り込む余地が少なくなったのか。 それとも全員のストーカー度がマイルドにうっすらと上昇し定着したのか。 私たちは「知り過ぎる」ことにっとくに疲れ切っている。
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