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ピンク・キャデラック (1989)

PINK CADILLAC

監督
バディ・ヴァン・ホーン
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  • みたログ 334

3.14 / 評価:99件

正義の味方にはなれない、俺には俺の法が…

  • 百兵映 さん
  • 2018年5月20日 21時22分
  • 閲覧数 278
  • 役立ち度 2
    • 総合評価
    • ★★★★★

 コメディーに仕立てられてはいるけど、アメリカのドタバタ劇とは違うし、フランスのお洒落な会話劇でもないし、イギリスのユーモアの空気もない。コメディーとしては駄作と言っていい。イーストウッドの照れ隠しのために、コメディータッチを試みただけのことだ。

 彼の(映画の上での)思想があちこちに散りばめられている。
 上司:「一度でも、正義の味方になってみてはどうだ。」
 俺: 「俺には俺の法がある。」
 法に触れる悪党どもを懲らしめる「正義の味方」を演じろという奨めに対して、イーストウッドは一般の常識(=偽善的、表面的、法による正義?)に馴染めない。だから、常識の法律ではなくて、「俺の法」などというのだ。

 ヤンキー姉ちゃん:「あなたには、家庭っていうのは無理みたいね。」
 俺:       「いや、時には寂しくなることもあるんだ。」
これが本音だ。これが「俺の法」ということかもしれない。しかし、照れ屋だから、行きずりの姉ちゃんが相手の時に、ボソリという位しかできない。この姉ちゃんも決して褒められた正義の人ではない。正義の味方にはなれず、俺の法で動く、それでこの姉ちゃんの味方になって戦う。じゃあ誰と戦う?

 「アメリカを白人の社会に」を標ぼうするアメリカの正義集団。今でいえば「アメリカ第一主義=アメリカ・ファースト」党だ。よそ様の大地に武力で押し入って、略奪、支配の結果が今のアメリカだ。この連中のいう法の支配ほど傲慢なものはあるまい。しかし、今となってはとてもそんなことは言えない。合法的に抹殺されてしまう。じゃあ、「俺の法」で対抗するしかないではないか。

 この作品の制作に関する限り、イーストウッドの「俺の法」は、正義集団を単細胞集団に設定して、コメディー仕立てにすることだったろう。もうひとつ、「寂しくなること」がないように、子供や女たちの味方になることだ。

 お得意の、車での逃走・追跡、射撃や腕力のアクションで、照れを隠しながら、俺の表現法で、正義漢振りを発揮している。度が過ぎると自己矛盾に陥るし、訳の分からぬ駄作になってしまう。本作は、その境界線に近い、と見るが、如何。

詳細評価

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