民族の祭典

FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I

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民族の祭典
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作品情報上映スケジュールレビュー

あらすじ・解説

解説:allcinema(外部リンク)

作品レビュー(4件)

かっこいい50.0%楽しい50.0%

  • sei********

    4.0

    現代オリンピックショーの始まり。

     毎年、初めには元祖的映画を紹介する。元祖的映画の多くはサイレントからトーキーに入れ替わった1930年代の作品である。例えば「魔人ドラキュラ」「キング・コング」「オズの魔法使」「風と共に去りぬ」、これらは元祖的映画・金字塔映画として不朽である。現代映画の基礎が詰まっているといってもいいだろう。  今年は、オリンピック記録映画の元祖と称してもいいレニ・リーフェンシュタール監督(余談1)の「民族の祭典」を紹介する。この作品、まとまった形のオリンピック記録映画として正味元祖であり、現在の記録映画の基本がぎっしり詰まった不朽の名作である。  残念な事に、本作が記録しているオリンピックとはナチス政権下のドイツで開催されたベルリンオリンピックであったため、作品の先進性や完成度はあまり話題にされない。(余談2)  それどころか、ナチスのプロパガンダ映画として忌むべき存在となり、ときおり時事問題を扱うTV番組でヒトラーが登場している部分を切り取り紹介する程度だ。  ナチスの宣伝に加担した以外で批判の的になっているのは、あからさまな演出である。  初めて観た時、現代の記録映画に近い映像に驚いた。これが戦前の古い映像なのだろうかと。当時のフィルムは今と違って感度が低く、当然カメラの性能も悪い。やや間延びした映像や尻切れトンボのようなカット、それから夜間競技の暗さが気になるものの、現在のテレビ局が作ったような絵に近い。スローモーション映像まである。  たぶん、ナチスドイツの肝いりゆえ潤沢な予算にまかせ大量にカメラを動員してあらゆる角度から撮影し、あとで膨大なフィルムを編集技術でもって観れる絵にしたのではないかと思ったら、どうやらそれだけではなかったらしい。  競技終了後に選手を集めて撮れなかった絵を再現させたり、編集の際に選手やアナウンサーに来てもらってアフレコをやらしていたようである。これが「記録映画のルールから逸脱」との批難を受けた。  とはいえ、彼女が作り出した映像や演出技術が、後世の記録映画やTV中継のベースになったのは間違いない。  また、意外にも予想したほどヒトラーが登場していないのも抑制が効いている。あくまで主役は世界各国から集まった五輪選手たちであり、多少ドイツ選手に重心を置いているものの公平な被写体設定だった。  政治的映画や宗教映画は、例えば邦画であれば制作者たちの思い入れが強く出すぎて作品を台無しにすること(余談3)が多々あるが、思ったほど政治色は少なく、映像からはユダヤ人や有色人種への露骨な差別は感じられなかった。これは監督の優れたセンスであり、それを許容したヒトラーの狡猾さだ。 (余談1)当時、30代半ばの新進気鋭女性監督。シャープなイメージのある美女で、髪は短髪、セーターにズボン姿でカメラマンに指示する写真が印象に残っている。  元々は舞踊家として注目されていたが、脚を負傷して女優に転身、監督業にも挑戦する。彼女を高く評価するヒトラー直々の依頼により、ナチスの重要なイベントで記録映画制作を担う。このため、ヒトラーお抱え映画監督の悪名が付いて回ることになる。  しかし彼女の映画は国外でも高く評価されたし、同じようにヒトラーが認めたものにフォルクスワーゲンのデザインや当時としては珍しい迷彩服などがある。ヒトラーは藝術家にはなれなかったがコーディネイターとして見る目はあったといえよう。 (余談2)意外に思う人が多いだろうが、現在のオリンピックの形を作ったのはベルリンオリンピックである。  太陽光で点火した聖火をアテネから競技場までリレーする所謂「聖火リレー」。  テレビの実況中継。  IOCは大会毎に記録映画を制作する事を義務付けたが、それは本作の成功がきっかけである。  このように輝かしい史上初の先進性を誇ったベルリンオリンピックだが、これら先進性が語られることは殆どない。 (余談3)「永遠のゼロ」の原作者や制作者の政治的ポジションは明白であり政治的意図があるはずなのだが、生臭い思い入れの強さを作品に滲ませる事を慎んだ結果、邦画として稀有の完成度となり興行は成功した。

  • fbx********

    3.0

    芸術

    本当に不思議なほど劣化していない映像。 凄くて息をのむ。 昨今のオリンピックにはお涙ちょうだい報道が多すぎて辟易とさせられる が、この映画のようにスポーツを肉体の極限の芸術として描かれると 心からオリンピックが素晴らしいと思えてくる。 金何個獲ったなんて意味あるの?

  • gan********

    3.0

    ヒトラーがいぱーいでてる

    ベルリンオリンピックの記録映画。 日本人メダリストけっこうだしたのね。 マラソン金は日本人ちゅーか、支配下の朝鮮人。 ここにもドラマあり。 ヒトラーがいぱーいでてた。 麻原しょうこうがテレビ番組にでてた感じやな。 民衆って簡単にだませるものなのかもね。一時的にせよ。

  • ********

    5.0

    政治から離れて

    1938年。レニ・リーフェンシュタール監督。ヒットラーの肝入りで1936年ベルリン・オリンピックを撮った映画。とはいえ、現在のテレビのように何十台もカメラを置いといて後で編集するというわけにもいかなかったでしょうから、素材としては、実際の競技者たちを撮ったある程度固定したカメラと、観客をとったカメラしかない(マラソンの走るシーンなど、後から付けくわえられたシーンもありますが)。つまり、限定された素材からいかに映画をつくるかという、カットと編集のすばらしさにあふれています。 ヒットラー本人も出てくるし、例の「ハイル・ヒットラー」の敬礼も随所に映されていてそれは問題ですが、「勝つか負けるか」で自国選手を中心にまとめてしまう現在のテレビに比べれば、古代オリンピックとの関連を重視し(オリンポスの神々の彫像を次々と映したあと、それが動きだすという導入)、「運動」そのものへも十分に注目した撮り方です(スローモーション)。逆に過度な政治性を排除しよとしているようでもあります。もちろん、ギリシャ以来の西欧中心主義という政治性はあるにしても。 競技→客→競技→客→決着、という弁証法的展開も、どこが勝つのかわからないという意味でナショナリズムになりようがないし、ナチス賛美でもない。「日本」といわれているマラソン優勝の孫選手は今で言えば韓国籍。これは当時の「ナショナリズム」の作為性だけでなく、「ナショナリズム」そのものの作為性をも明かしてくれます。 競技の内容では「走り高跳び」と「棒高跳び」がおもしろい。前者は今ではほとんど同じ飛び方ですが当時はバラバラ。背面跳びがいないだけはなく、それぞれ個性的です。後者は長引いて夜までかかったから周囲はまっくら。そのなかを走ってくる選手にライトが当たってボワっと浮かんでくる、なんとも美しい映像です。黒と白の、フィルムノワールのような構築性を感じます。すると、とたんに競技も作られたもの=虚構に見え、「これは本当にオリンピックなのか」という疑いが頭をしめてきて、実際に会場にいた人たちにとっても、「夜の棒高跳び」はリアリティを欠いた、虚構的な美しさがあったに違いない、と思わせます。早すぎたフィルムノワール! ただの記録映画だと思ってみくびっていましたが、とんでもない。この監督、ナチス問題であまり評価されていないようですが、どうなんでしょうかねぇ。。。

スタッフ・キャスト

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受賞歴

ヴェネチア国際映画祭第6回

ムッソリーニ杯外国映画

基本情報


タイトル
民族の祭典

原題
FEST DER VOLKER-OLYMPIA TEIL I

上映時間

製作国
ドイツ

製作年度

公開日
-