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仔犬ダンの物語

dkw********

5.0

巧妙な語り口が楽しめる快作!

先ずは、《映画の物語》について…。 《映画の物語》と偏に言っても、二つの性質が組んず解れつしながら成立しているのが映画だと思います。 一つは、観る側の脳裏で整理し直される物語。 もう一つは、ファースト・ショットからラスト・ショットまでの連続性によって齎される物語。 蓮實重彦さん曰く、《不可視的なものが齎すイメージとしての物語》と、《可視的なものが齎す説話論的持続性》というやつです。 いかにも学者らしい勿体振った言い回しですが、つまりは、そういう事でしょう。 前者は“あらすじ(ストーリー)”或いは“主題(テーマ)”として処理されているもので、後者は“それらを成立させている“映画表現”のことです。 “映画表現”では漠然とし過ぎていますが、小説で言うところの“文体”と同様のもので、要するに、“語り口”のことです。 “あらすじ(ストーリー)”や“主題(テーマ)”は観る側のイメージに委ねられてしまうものなので、作家の個性を発揮し難いものですが、“語り口”なら表現者としての個性は発揮できます。 つまり、それが“作風”と呼ばれるものだと思います。 これは映画や小説に限った事ではなく、例えば、落語やコントにさえ当て嵌まる事だと思います。 笑いのツボは、“滑稽さ”や“間”だったりする訳で、“ストーリー(ネタ)”には見出し難くいものです。 では、この『仔犬ダンの物語』では、どうだったか…。 感心頻りの“語り口”は、決して“ストーリー”におもねることなく際立ったものでした。 大抵の映画は、“ストーリー”に“語り口”が埋没する傾向がありますが、この作品では寧ろその逆です。 故に、グロテスクな印象さえ抱かされます。 黒沢清監督や塚本晋也監督のように、初めから“ストーリー”を忠実に描く事を放棄した作風ならば、このようなグロテスクな作品にはなり得なかったでしょう。 なぜなら、予め映画文法を無視する事で、時間や空間の移動を厳密に表現しなければならない制約から、逃れられているからです。 つまり、“映画表現(語り口)”に専念できる訳です。 ところが、本作品に於ける澤井監督の律儀な作風は、“ストーリー”の時系列をなぞりながら、時間と空間を忠実に表現していきます。 それも、一度も躓く事無く正味64分の説話論的持続性を見事に突っ走り切ります。 しかも、オーソドックスな表現方法を駆使していますが、フェード・アウトやオーバーラップなどの時間をいじる映像処理は、一切排除されています。 澤井監督がこれらの映像処理を好まない作風なのかどうかは分かりませんが、このようなアプローチの仕方は映画表現者としてはとっても禁欲的で、先鋭的な姿勢と言えるものでしょう。 モーニング娘。というアイドルの映画で、子供たちが主役…。 それも、まったくの素人ばかり…。 おまけに、盲目の仔犬がモチーフというところへ来て、厚労省のご推薦…。 極め付きのタイトルが『仔犬ダンの物語』とくれば、大抵の映画ファンは外方を向いてしまうでしょう。 幾ら何でも掟破りの超保守的な内容を想像させますから…。 事実、この作品が国内の映画評論界でまったく評価されなかった理由も、こういった先入観によるもの…、或いは、“語り口”を軽視して“ストーリー”ばかりを追いかける鑑賞方法による“見過ごし”が原因でしょう。 以前、トークイベント【澤井流演出術-美は諧調にあり~澤井信一郎×井土紀州】での、井土紀州監督の「…確立された方法を壊す…」という発言に違和感を感じ、自主制作映画の果たすべき役割について疑問を抱きました。 その後、再度の対談【続・美は諧調にあり】で、澤井監督が以下のように仰っていたことを知り、改めて気付かされます。  「…自主制作映画の現場というのは恐らく、俳優を演出する技術を伝承されないまま映画をつくるということだ。そのことは、今後も常につきまとう問題だ…」 この澤井監督の自主制作映画への言及は、そのまま『仔犬ダンの物語』によっても示されていたと率直に感じます。 やや逆説的な言い回しになりますが、《確立されていない方法を壊す…》。 素人同然の子供たちによって演じられた『仔犬ダンの物語』は、自主制作映画に対するアンチテーゼとして、グロテスクに君臨していると言えるでしょう。 その意味で、非常に挑発的な映画です。 …と、こんな風に書くと、いかにも堅っ苦しい映画のように思えるでしょうが、実に映画の楽しさに溢れた作品です。 まだ、ご覧に為っておられない方は、是非ともご覧になってみて下さい。

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