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夕陽のガンマン

夕陽のガンマン

PER QUALCHE DOLLARO IN PIU/FOR A FEW DOLLARS MORE

132

ふーさん

5.0

ネタバレエンタメ映画の普遍的完成形

かつてタランティーノ監督が、自身の愛する映画のNo1に「続夕陽のガンマン」をあげて以来、そして2017年公開の「サッドヒルを掘り返せ」というオマージュ作品の存在感なども相まって、多くの識者やファンも含め、マカロニウエスタンの最高傑作を「続夕陽のガンマン」とする声は、今やすっかり定着しているようです。 しかし古くからのマカロニファンの間で、かつてはマカロニワールドの最高峰は「夕陽のガンマン」という声が圧倒的ではなかったでしょうか。私自身そう思っていたし、その気持ちは今も変わりません。 さて、本作はダグラスモーティマー大佐(リーバンクリーフ)と、モンコ(クリントイーストウッド)という2人の賞金稼ぎが、時には出し抜き、時には協力しあいながらインディオ(ジャンマリオボロンテ)を首魁とする強盗団一味を壊滅するという物語で、いわばモーティマーとモンコのバディものであります。 それぞれのキャラの個性の対比がガンプレイなどの演出で、しっかりと印象づけているところがにくいですね。戦術的に自分を絶対的に有利にしたうえで、危険を極力回避しつつ相手を仕留める、そんな初老で老獪なガンマン・モーティマー大佐に対して、早打ちの腕に任せて危険もかえりみず、ほとんどいきおいで撃ちまくるモンコ(笑)。イーストウッドの風格が幾分邪魔をしているとはいえ、彼の若さとクリーフの成熟した大人ぶりを際立たせ、対比させたいレオーネ監督の計算がうかがえます。 そして本作の白眉は何といってもモーティマー大佐とインディオの一対一の決闘シーンです。この決闘のシークェンスが見事なのは、この時点で、初めてモーティマー大佐の人物の全体像が観客にしめされるところでしょう。お尋ね者を人間とも思わず、冷徹に殺し、まさに殺人機械のようであったモーティマー大佐が、インディオを追い詰めていたのは、実は復讐に動かされてのことであったことに観客は気づくのです。モーティマー大佐の心に深く根差す家族への愛情が露わになり、観客はそれまでと異なる思いでモーティマー大佐に共感する。それは愛と冷酷の狭間で揺れる彼の人間像が、初めて哀感を伴い観客の心を揺さぶる時といえば良いでしょうか。 そして映画の中で大佐のキャラを縁取っていたさまざまな「謎」。なぜ彼は嘱望されていた軍隊をやめ、当時から偏見の目でみられていた賞金稼ぎに身をやつしたのか、大佐がモンコとの会話の中で「あることがあって、死ぬことが恐ろしくなった。」という意味深なセリフの意味。もっといえば最初の登場シーンで彼が「聖書」を読んでいるときの思い。そうしたこまごまとした謎の意味の全てが、決闘のシークェンスシーンの中で徐々に融解し、決闘シーンに物語のクライマックスとしての重みが幾重にも増幅されるのです。そうした作劇上の構成がすばらしいと思います。 しかもこの決闘にさいしてこれまで常に一歩大佐の後塵を拝していたモンコが、粋な男気で大佐をサポートするのも心地いいですね。さらにバックではエンニオモリコーネ作曲の「決闘のトランペット」が朗々と鳴り響き、オペラ的興奮がいやおうもなく盛り上がります。あ~もうたまらん。 そして一発の銃声の音でその決闘はフィナーレを迎えます。 その後の大佐とモンコとの会話。モンコは大佐の心中をうっすらと推察はしているのですが、大佐は個人的なことをほとんど語らず、モンコも敢えて大佐の心中に踏み込みません。この時点で大佐の思いを真に共感しているのは映画をみている観客だけです。そして大佐はすべての賞金をモンコにゆずるといいますが、これは、友情というよりは、人に借りをつくりたくはない。若しくは、恩には恩を返すという、個人的にはどこかイタリアンマフィアの「血の掟」を連想してしまうのですが、このへんもまさにイタリア西部劇たる所以ではないでしょうか。 そして馬に乗り、去ってゆく大佐。夕陽に染まった荒野の荒涼とした風景は大佐の心象風景そのままなのでしょう。そこにみなぎる哀愁に私は何度繰り返し見ても胸がしめつけられます。 半世紀も前のエンタメ作品でありながら、そして当時の多くの映画が時の浸食を受け古びていく中で、本作にはすこしも古びたところがない。というより、何十年か先の人々にとっても、みずみずしい映画のカタルシスを、決して失わない作品だろうと思います。そういう意味で、まさにエンタメ映画の1つの普遍的完成型がこの「夕陽のガンマン」ではないかと、レオーネ作品を偏愛してやまない私には思われてなりません。 セルジオレオーネという偉大な作家の功績がこれからも風化されることなく語り継がれてほしいものです。

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