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六月の蛇

六月の蛇

A SNAKE OF JUNE

77

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4.0

ネタバレ生=性=死の肯定

性的本能は、原則として子孫を残すためにある。 つまり、自分という個体がいずれは死んでしまうという事実が、われわれをセックスへと促す。だから無意識に死を恐れる重彦は、動物や自らの汚れ・排泄物、水回りの汚れ(これは放っておくとカビや虫がわく)に敏感であるし、母の死を直視することができないし、何より妻と一緒に寝ることができない。それらは何よりも自らの生=性=死を連想させるものだからだ。 一方、癌によって死を意識したりん子と道郎は、よりよき死に向かって よりよき生を歩み出す(りん子=性的妄想の実現、道郎=人間の写真、それも性的な写真の撮影)。 やがては重彦も性=死を見つめようとし、りん子とのセックスに至る。 いずれ死に至るりん子の姿を、その運命に抗うかのように写真という永遠の像に焼き付けようとする道郎。 死への抵抗ともとれるその写真が、後に重彦に手渡されるとき、それはむしろ遺影と呼ぶ方がふさわしいような不穏な空気を帯びるようになる。写真こそは、生と死が背中合わせであり、突き詰めれば同じことであるということを示す忌まわしい装置なのだ。実際、後に道郎がピンホールカメラで撮る二枚の写真が暗示し、予告するものはひとつしかないだろう。 また映画の中にあふれる水も、カタツムリや、(重彦が気にするような) 水回りに生きる生物にとっては、生をもたらすものであるが、秘密クラブの男女にとっては死をもたらすものになる(やらせだったが)。 つまりこの映画は、何らかの形で生=死から逃げていた三人が、 生=死を肯定するという物語であり、水または写真は それを暗示しているのだと思う。 美しい映像や、無駄がないうえにケレン味もたっぷりの演出。 なぜか音楽がのせられていないシーンのほうがドラマティックであり、 その語り口は観客をスムーズにラストまで誘い込むだろう。 最後に、辰巳重彦という名前はやはり蓮實重彦への当てつけだろうか?

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