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ラヴ・ハッピー (1949)

LOVE HAPPY

監督
デヴィッド・ミラー
  • みたいムービー 2
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3.80 / 評価:5件

映画の力におさまったマルクス兄弟の最後

  • 文字読み さん
  • 2009年9月8日 0時03分
  • 閲覧数 317
  • 役立ち度 4
    • 総合評価
    • ★★★★★

1949年。マルクス兄弟。例のごとく、若いカップルの恋の行方と金の行方を扱うドタバタコメディ。今回は資金難にあえぐブロードウェイの劇団と、ロシア・ロマノフ家のダイヤが交錯する。マルクス兄弟最晩年の作品ですが、ドタバタが少なく、しっとりと無理のない映画になっています。それ以前の3人は彼ら自身が意識的に動き回って映画を引っ掻き回していましたが(恋と金を結びつける)、今回は映画の力学が優先されていて、3人はそのコマ。一方では安心して見れますが、他方ではいつもの破壊力がない。

大きな原因はグルーチョが語り手になってしまうこと。探偵役の彼が事件を振り返るのですが、彼自身がほとんど出てこない。彼の語りのなかで事件が起こる明確な「枠映画」なのです。しかもその事件のなかに舞台内容と舞台裏がともに含まれていて「枠の枠」にもなっています。「枠」におさまってしまうマルクス兄弟に破壊力がなくても仕方がない。

「天然」のハーポだけが舞台内容と舞台裏を行き来し、探偵の語りのなかにも語りの現場にも現れて「枠」を越えています。ダイヤを動かしてしまうのもほとんどハーポだし、電気の流れに乗ってしまったり、けむりと一体化してしまったりする。「枠」など関係ないだけでなく、物とその現われの区別(具体的な人間と見えている電気の光の区別)をも越える男!映画は見えているものがすべてなのだから、それが本物かニセモノか、実物か光かなどはどうでもいいのです。

映画の「枠」内に収まったマルクス兄弟の最後が、唯一「枠」の区別を超えていくハーポが遠くへと歩き去っていくシーンなのは、映画の歴史上特別な意味があるのかもしれません。破壊力を失って「枠」内で安心する映画へ。そうはいっても、ちょい役でマリリン・モンローが出ていて、やがて彼女が「人間ならざるもの」を演じていくのだから映画史っておもしろい。

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