4.0点
原作は、バルザック(1799年~1850年)の短編小説「フレンホーフェル画伯(知られざる傑作)」(1831年)。時代は、現代に移してある。 この映画の見どころは、マリアンヌを演じたエマニュエル・ベアールの見事な裸身と、老画家がマリアンヌのヌード・デッサンをひたすら描いて絵が姿を現してくる、そのリアルタイムの様子の二つに尽きる。それ以外は、はっきり言ってオマケだと思う。 老大家フレンホーフェルは、風光明媚なプロヴァンスの古城に、妻と二人でひっそりと暮らしている。新作の絵はほとんど描いていない。 ある時、フレンホーフェルを敬愛する新進の青年画家ニコラ・ヴァルテルが、マリアンヌという恋人を連れて老画家の住まいを訪れる。 フレンホーフェルは、そのマリアンヌを見て、10年前に妻のリズをモデルに描きかけて、最終的に断念してしまった大作「美しき諍い女」を、マリアンヌをモデルに再度手がけてみたい気持ちになる。 絵の制作にあたって、当然画家とモデルは、長時間、アトリエという密室内で二人だけの時間を過ごすことになる。そこから、いかにもありがちな、付随的なトラブルが起きる。マリアンヌと恋人ニコラ、フレンホーフェルと妻のリズ、それぞれの間に気持ちの行き違いなどが生まれる。それはそれで、余計だとは思わないが、基本的にはオマケ程度の意味しかないと思う。 さらに、4時間も引っ張って、最終的に画家の渾身の大作「美しき諍い女」は、観客の目に触れることはない。絵を見ることができたのは、画家本人とマリアンヌと妻のリズだけだ。 マリアンヌは、絵を見て、怒りに打ち震える。 リズは、やはり、と思う。 画家本人は、せっかくの大作を、アトリエの壁の中に、塗り込めて隠してしまう。 こういう展開は、肩すかしを食らったみたいなもので、本当に絵は完成するのか半信半疑だったとはいえ、けっこうがっくり来た。 姿を現さなかった傑作(?)について、あれこれ詮索することは、時間と思考の無駄だと思う。 絵は、観念ではなく、実際に目に見えるものだ。目に見えるものがすべてであり、すべてを語る。幻の傑作というのは、形容矛盾だ。だから、封印された絵が、どんな絵だったかを考えることには、意味がない。 目の前にあるのは、マリアンヌの裸身と、画家のたくさんのデッサンとその実際のタッチである。とくに、エマニュエル・ベアールの裸身の、とりわけその曲線の美しいことといったら、ため息が出るほどだ。それだけで、この映画を見る価値が、十分あると思う。 それから、ヒロインのマリアンヌが、モデルになる前と後では、明らかにその内面の何かが変わってしまっているらしく思われるところが、印象的だ。「美しき諍い女」とは、じつは完成した絵のほうではなく、マリアンヌそのものに他ならないのだと思う。 主人公の老画家フレンホーフェルが絵を描いているシーンは、フランスのベルナール・デュフールという画家が、実際に筆を執ってカンヴァスに向かっている様子を撮影したものだそうだ。 それから、映画のオープニングとエンド・クレジットの音楽が素晴らしい。ストラヴィンスキーのバレエ音楽「アゴン」だそうだ。