作品レビュー(1件)
- dam********
4.0点
主人公のサムソンを演じたデニス・ホッパーが、まずパッとしない。ぜんぜん華がない。顔が記憶に残らない。 それに対して、この映画で、ひとり華を感じさせたのは、デリラ役のエリザベス・ハーレイだ。こちらは、妖艶という形容がぴったりの、絶世の美女だった。思わず見入ってしまった。ただ、このデリラも、さほど目立った活躍をするわけではない。 映画そのものは、公平に言って、あまりおもしろいものではない。 歴史物としては、スペクタクルとはいかず、派手な場面はほとんどない。不毛の砂漠の地パレスチナを舞台にした、地味な作品だ。 ある程度、聖書や当時の民族と人物について知らないと、わかりにくい。聖書に興味のない人にとっては、退屈だと思う。 「サムソンとデリラ」は、旧約聖書の「士師記」に由来する話。「士師(しし)」とは、古代イスラエル民族の指導者・英雄のことをいう。サムソンは、士師の一人にあたる。 時代は、紀元前11世紀頃。舞台は、パレスチナのガザの近く。 ペリシテ人が小王国を支配しており、その片隅にヘブライ人のダン族が天幕を張って小集落を作っている。ヘブライ人は、ペリシテ人の制圧下で苦しんでいる。 そこに、天下無双の怪力サムソンが登場し、ヘブライ人の希望の星になる。 ところが――。 制作者の意図が、伝わってこない。 もっとも、これは、聖書のもとの話でも同じなのだが。つまり、サムソンは、何のためにヘブライの民に遣わされたのか、よくわからない。 映画そのものから伝わってくるのは、ヘブライの神の酷薄さばかりである。ヘブライの民は神に選ばれし人々であるはずなのに、現実の彼らは愚鈍な過ちばかりをくりかえす。その過ちは、当然神の怒りを買い、信仰をたがえた報いとして容赦のない罰が下される。 ヘブライの神は、民への慈しみを忘れた、ただただおそろしいばかりの、嫉妬と憎悪と憤怒の神としてしか、民の前にあらわれない。 民は、恐れおののき、身を縮めて恭順の意を表し、ひたすら主の前にひれ伏す。 その代表が、サムソンである。 サムソンは、なぜ、この世に遣わされたのか。サムソンの母は、石女(うまずめ)だったが、神の使者の予言どおり、子を授かる。名をサムソンとした。「太陽の子」という意味だ。 サムソンは、神に捧げられし者(ナジル人)として、三つの誓いを守るよう、幼いときから教え込まれる。 1 ぶどう酒やぶどうの実は口にしない。 2 死体に触れない。 3 髪を切らない。 しかし、誓いの1と2は、あっさりと破られてしまう。 そして、3つ目の誓いが、デリラと関わってくる。 デリラという女。 デリラは、その美貌でサムソンを誘惑し、サムソンの怪力を封印する。怪力を失ったサムソンは、ペリシテ人の虜囚となる。 ふつうに考えれば、むろんデリラは、金目当てにサムソンを陥れた悪女だ。 だが、デリラはサムソンを欺いたあとも、サムソンへの愛を捨てられず、囚われのサムソンに涙を流す。サムソンも、デリラを恨んでいるふうにも見えない。 一方に欲に目がくらんだデリラがおり、もう一方にサムソンへの愛を持ち続けるデリラがいる。どっちつかずの、欲の深い、愚かな女と一蹴されそうだ。それに、デリラは、悪知恵は働くが、思慮深いわけでもない。 そういうデリラを、絶世の美女エリザベス・ハーレイが、好演していた。 この映画の魅力。 エリザベス・ハーレイのデリラ。 ヘブライの神の不可解さ。 最後の、ダゴン神殿崩壊の様子。
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