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クオ・ヴァディス

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5.0

「帝政ローマの光と影」

 「尼僧ヨアンナ」(1961)のイェジー・カヴァレロヴィチ監督の作品。ポーランド語によるポーランド映画である。  この作品は、全6話の連続ドラマ形式になっている。本編225分。ビデオでは上中下の三巻。もともとテレビドラマらしい。各回のはじめに前回までのあらすじが紹介される。しかし、テレビドラマにしては、スケールの大きい豪華な作りである。  原作は、ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチ(1846年~1916年)による、帝政ローマ時代に取材した歴史小説ある。「クォ・ヴァディス:ネロの時代の物語」(1895年)が正式名称。シェンキェヴィチは、詩作の功績で1905年にノーベル文学賞を受賞している。  「クオ・ヴァディス」とは、「(主よ、)どこに行かれるのですか」(Quo vadis, Domine?)という意味である。最後の晩餐の席で、ペテロがイエスにたずねたことばだ。これに対し、イエスは、「私が今から行く所に、あなたは今行くことはできない。しかし、後から行くことになる」と答える。  映画のストーリーは、はじめは、コロッセウムを背景にした荘厳なオープニングのわりに、それなりという印象なのだが、回を追うごとにおもしろくなってくる。最終回は、そのコロッセウムに満員のローマ市民が埋まり、歓声と怒号のなか、茫然自失、目を覆いたくなるような、息を呑むような展開が待っている。  映画のポイントは、いくつもある。 1 初期キリスト教が帝政ローマ社会に浸透していく様子。 2 暴君ネロの人となりと、キリスト教信者への暴虐ぶり。 3 「サテュリコン」の作者ガイウス・ペトロニウスの人間像。 4 帝政ローマ時代の、貴族、平民、奴隷の関係とその暮らしぶり。 5 主人公の青年貴族マルクス・ウィニキウスとリギ族の王の娘リギアとの恋の行方。 6 キリスト教信仰とその信者であるリギアとの出会いによる、ローマ人ウィニキウスの心の変化。 7 古代ローマ的なものと初期キリスト教的なものとの対比。 8 壮麗なコロッセウムとフォロ・ロマーノのセット。古代ローマの街並みの再現。 9 厳粛な音楽と享楽的な音楽。 10 圧巻は、最後のコロッセウム(闘技場)での二日にわたる「見せ物」の場面。この場面を見るだけでも、この映画を見る十分以上の価値があり、お釣りがくるくらいだ。ともかく、すごいとしか言いようがない。  他にも、いろいろ。  話の中心線は、ウィニキウスとリギアとの恋の行方なのだが、この映画の面白さは、二人を含めて主要な登場人物の一人一人が、みな一癖も二癖もありそうな人物ばかりだということだ。脇役まで、ほぼ全員何かありそうな雰囲気なのだ。  じっさい、作者のシェンキェヴィチは、その気さえあれば、一人について一冊の本が書けたのではないかと思うほどだ。そういう人物が、二十人近く登場する。  なかでも、ウィニキウスの叔父ペトロニウス(27年~66年)と、暴君ネロ(37年~68年)の二人は、主人公の二人をほとんど食ってしまっている。  個人的には、暴君ネロが最も信頼し、当人もネロの最大の理解者でありながら、じつは誰よりもネロの愚劣さを知り尽くし、心底から侮蔑しきっている趣味人ペトロニウスが、底知れない深みを感じさせ、興味をそそる。この映画の冒頭に登場するのは、このペトロニウスなのが、何か暗示的である。  ペトロニウスにかかっては、ラテン文学の大御所セネカも、ローマ的知性でしか物事を見られない、狭隘な人物になってしまう。恐るべき批評眼と審美眼の持ち主だ。  狂言回しの哲学者キロン・キロニデス。阿諛追従の問屋みたいな、心根のとことん腐った人物だ。頭がいいだけ始末の悪い、虫けらにも劣るような三流哲学者である。  ところが、これが最後に思いがけない姿を見せる。  このキロンの扱いは、独特である。通常なら舌先三寸だけで生きている、軽蔑すべき小人で扱いは終わりだと思うが、平気で人を売るような人物だからこそ、キロンの変容には尋常ならざる意味が漂ってくる。  このキロンの扱いだけで、「クオ・ヴァディス」そのものの作品の奥行きが変わってくるほどだ。  ヒロインのマグダレナ・ミェルツァシュが、文字通り人形のように美しい。女優としては合格点に少し足りないか。東欧の女優が何人も出ているようだが、皆きれいだ。東欧系の女性は本当にきれいな人が多い。  ストーリーがおもしろいので、長さはほとんど感じさせない。

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