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男たちの大和/YAMATO (2005)

監督
佐藤純彌
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3.72 / 評価:2302件

「ボクラ少国民」による新たな戦争神話

  • 和製ズィーマン さん
  • 2021年3月26日 23時18分
  • 閲覧数 419
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    • 総合評価
    • ★★★★★

「ボクラ少国民」世代の佐藤純彌監督による戦争ファンタジー。
少しでも戦争の歴史を齧った人間なら分かるけど、ここに描かれているお話は史実ではなく完全なフィクション。

戦艦大和の存在が外国には無論、国民に対しても厳重に秘匿されていたことは有名な話。(もちろん、あれだけデカいフネだから、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」に登場した漁師の親子のような目撃者もいただろうが)
太平洋戦争前に建造された戦艦長門と陸奥が「日本の誇り」とまでいわれ、国民にとって文字通りの「アイドル」(偶像)であったのとは実に対照的。
一般国民が戦艦大和の存在を知るに至ったのは、戦後約1ヶ月経過後の新聞報道によってだ。

でもこの映画では、「大和は沖縄へ行くんじゃろ」というセリフ(最初にこの映画を見たときは吹き出しそうになった…笑)や、最後の上陸から大和へ戻る将兵を呉市民が見送るシーンがあったり、主人公が田植えの季節(=終戦前)に戦友の母親に戦死を知らせに行ったりするように、大和の存在はおろか沖縄への水上特攻も秘匿されていない。

要するに「国民と共に戦う大和」「大和と共に戦った国民」という新たな神話の創出だ。

実際に戦場に行った世代が「天皇陛下の御為」の戦争と捉えるのに対し、少国民世代にとっては「国民の戦争」となる。(作中で天皇の存在感は極めて希薄)
だから、佐藤監督は主人公の少年兵らを、天皇陛下の御為ではなく「愛する者を守るため」死地に赴かせる。

でも史実では、大和の最後の出撃は、戦局に何ら寄与することなく、僚艦も含め戦死者4044名、敵方戦死者13名(!)という敗北の名にすら値しないワンサイドゲームに終わり、先述のように大和の存在自体が秘匿され続けたから、「一億総特攻の先駆け」として国民の戦意を鼓舞することもなかった。
剰え、無益な作戦で燃料を浪費したがため、食糧輸送の「日号作戦」に支障を来すことになって、文字通りの「穀潰し」に。
玉砕するも敵に大損害を与え、「活かせ!硫黄島勇士の魂」と喧伝された硫黄島守備隊とは全く異なる。

所詮は「浪花節」なのだ。
平手造酒の大利根河原、吉良の仁吉の荒神山!
「連合艦隊」の丹波哲郎氏のセリフ宜しく「そんな浪花節は聞きたくない!」と言ってはみても、日本人はこーゆーお話が大好きだ。
若い世代も、浪曲そのものは「年寄り臭い」とバカにしていても、日本人のDNA故か浪花節的なものに引かれるのだろう。
そういった意味では、大和は戦争そのものに役立たなかったとはいえ、戦後日本人に対するプロパガンダの優良コンテンツとなったか?(笑)

ラストシーンでは、年老いた主人公に代わって少年船員が漁船の舵輪を握る。
大和乗組員の遺志を継ぐ若い世代が、「戦後を終わらせる」という行為を成し遂げるのだという、監督の熱い(?)メッセージか。

まあ、この映画の思想云々は扨置き、映画自体としての出来も酷いもんだ。

そもそも、大和の戦争の中での位置付けが全く不明。
史実通りの展開なら脳内補完が可能だが、大和にとって初の本格的な戦闘、主人公にとっても初陣になるべき、極めて重要なはずのマリアナ沖海戦が「なかったこと」になっているし、大和が訳の分からない戦況の中でウロウロしているようにしか感じない。
レイテ沖海戦では、戦艦武蔵の沈没がナレーションで伝えられるが、武蔵が大和の同型艦である旨の説明がないから、大和が航空攻撃の前には不沈艦たり得ないという事実、それ故の登場人物たちの以後の絶望的な状況が、軍艦に詳しくない視聴者に伝わらない。

戦闘シーンにおいても、主人公たちが甲板上の狭い範囲を動き回っているだけで、客観的状況が伝わらない。
最後の戦闘では、僚艦が画面に描かれず、大和の単艦状態みたいだ。
とにかく「全体」が伝わらない。
また、敵機は登場しても、敵そのものは全く登場せず、やはりマッカーサーを神格視する少国民世代は、アメリカ人を敵として描くには忍びないか?(笑)

それにしても、実物大のセットを作ったとはいえ、セット感がハンパなく、真の主役(?)の25ミリ機銃も、如何にも軽量素材で作られてるって感じで、そりゃあ敵機に当たらねーわ(笑)。
レイテ沖海戦後は、激戦後なのに甲板がキレイだし…。
艦橋に敵機からの機銃掃射で銃弾が飛び込んでも、窓ガラスが割れてねーし…。
所詮は、ローバジェットの邦画の限界か?(笑)

佐藤監督にとってこの映画は、かつて「野性の証明」という「反自衛隊映画」を作ったことの「贖罪」だったのだろうか?
まあいずれにせよ、佐藤監督は「戦後の終わり」を見ることなく泉下の客となられた。
また、かつて「人間の條件」という昭和の「反日映画」に主演した仲代達矢氏にとっても、本作品で主人公の老後を演じたことには、主人公同様「昭和が終わった」という大きな意味があっただろうか?(そして、政権の覚えも大いに目出度く…?)

詳細評価

物語
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