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マンダレイ (2005)

MANDERLAY

監督
ラース・フォン・トリアー
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3.63 / 評価:120件

タブーの果てにあるものは?

  • sun***** さん
  • 2007年6月21日 3時02分
  • 閲覧数 188
  • 役立ち度 4
    • 総合評価
    • ★★★★★

これは人によっては勿論、映画でないという人も多い。むしろ私は演劇のスタイルを録画していったという方が不自然ない表現言葉だと思う。基準となる照明はゴッドファーザーなどでお馴染みの頭の上から当てた陰影の深い照明。全てのセットは人間があるく、そしてキーとなる小物意外は全て観客に想像に合わせられるように、音のみで表現される。
 実験的な舞台や抽象的な映像かと主われがちだが、監督のラース・フォン・トリアーが目指しているものは確実に昔の映画、それもハリウッド映画などが作り上げていった映画劇であり彼は、(技術的なクリアを目的としても)昨今作れてて取るに足らない商業映画たちの節度をもって正しているのかもしれない。
 物語はいたって簡単だ。女が流れつき、農園で自分の理想-そう、それこそみんなが暮らし易いというリベラル(理想)-を実行しようと頑なに努力する。これだけだ。啓豪映画としてみれば、抽象的な空間と合い重なって「人種差別と民主主義の限界」というテーマはより一層深くみられると思う。
 私はこの映画にテーマなど必要がないと思う。製作する側としては映画の終着点となるテーマは必要であるが勿論必要だと確信はするが、トリアーの撮りたいものは彼の作品に一貫している「タブーと人間の関係」であり、タブーが破られるシーンに彼は一つの喜びを感じているのだと思う。
 見てる受け手側は確実に「これでいいのか?」と驚きと突っ込みをどの場面でも多かれ少なかれするのだがそれで解決したいというのはトリアーは思ってはいない。
 白人が黒人の格好と黒塗りをして黒人の給食をする。ブライス・ダラス・ハワードが黒人と戯れる理由、分別されなければコントロールできないという性分、一つ一つショッキングで常識的な次元では説明つくされない、ある意味魅力的な場面が続く。
 私がここまで楽しめるのはただの一市民だからであり、この中のキャラクターたちのように生々しい生活を送っていない。「何かが残る映画が良い」とたかだかに映画に差異を作る人たちとって格好の材料となるのだが、だいたいはみんな平凡の市民を演じて現実の世界で生活を営むことに一生懸命なのだから、この映画は楽しめるのであって、特にこの手の映画が珍しいとも思わない。
 ただ、タブーを羅列しそれをキチンと整理整頓したトリアーの映画趣味は認めるのだがそれ以上でも以下でもない作品であることには関わりない。それはこの監督の全ての映画がそういうものだと確信している。
 タブーの果てにあるのは、我々現実生活をしている市民たちの姿である。
次回作で三部作のラストとなる「ワシントン」は今回の民主主義、前作の人間のエゴイズム(身勝手さ)、ラストにおいてはマイノリティ(少数派)の思想と集団というラストにつながりそうな気配である。
 そしてまたタブーの果ての市民が描かれるのだろうか。

詳細評価

物語
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