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バベル (2006)

BABEL

監督
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
  • みたいムービー 8,427
  • みたログ 1.5万

2.94 / 評価:3,703件

運命を素直に受け入れる無垢な心

  • yab***** さん
  • 2016年12月10日 0時08分
  • 閲覧数 2541
  • 役立ち度 4
    • 総合評価
    • ★★★★★

 世の中、皆、”たられば”を切望する。今の自分の境遇を憂いて、前向きに考えられなくて、”たられば”を夢想する。だから、”たられば”の映画や小説が何故かヒットする。変身願望が逃避に移行していく。
 この作品は、”たられば”なんかを考える暇を許さない。目の前に突きつけるられているのは、偶然が重ねあった圧倒的な現実のみである。こうしておけばよかった、という悔恨に対し、情状酌量は用意されていない。自分がよかれと思って行動したことが、相手に理解されず、ちょっとしたボタンのかけ違いが事件になり、違法行為になる。

 それを心の隙といってしまえばすべてが語り尽くされてしまう。確かにモロッコの少年の兄弟は、銃の性能を試すことと、観光バスに銃を向けることの事の大小を判断できていない。
 メキシコ出身の家政婦は故郷の息子の結婚式に出席しようとするが、家政婦の代役が見つからず、面倒を見ていた兄妹をメキシコに連れて行く。彼女の誤算は、国境警備の厳しさ(特にメキシコからアメリカに入国する時)と、運転していた甥っ子の無軌道さを見抜けなかったことだ。
 モロッコの少年の銃弾に倒れたアメリカ人の妻は、夫婦のよりを戻すために、わざわざ子供を家政婦に預けたまま、夫とともにモロッコに旅立つ。しかし、その必要が本当にあったのだろうか。

 自分で下した判断が凶と出た時、その判断を単に運が悪かったととるか、それともあくまで運命に抗して自らに落とし前をつけることにするか、それとも、そのまま運命を素直に受け入れるか。
 イナヤリトゥは、たぶん第三の選択を描いているのだろう。運命を素直に受け入れる時、なにかが見えてくるのだ。

 モロッコの少年は初めて嘘つきの自分から解き放たれる。家政婦は初めて、「いいえ、私は悪い人間じゃない。愚かなことをしただけ」と言って、自分という人間を再認識する。アメリカ人夫婦は、モロッコの村で救助の来ない極限状態の中で、愛の存在を再確認する。
 そして、その中心に菊池凛子の聾唖の女子高生がいる。新宿、渋谷を遊び歩いても、からっぽな楽しさに絶望する。絶望の淵から人に対しコミュニケーションをとろうとしても、言葉が伝わらない。もどかしさだけが心に鬱積する。
 会社だって同じじゃないか。上司に報告しただのしないだのから発する、コミュニケーションの欠如が、重大な判断ミスにつながって、それこそ、重大事だ、違法行為だと大騒ぎになる。
 女子高生から発せられるわかり合いたいという純粋な想いは、世界に届くのだろうか。彼女がライトが点滅するディスコで感じた空洞感と同じ空洞感が、モロッコの少年にも、メキシコ人の家政婦にもアメリカ人夫婦にも宿っている。
 素直にわかり合えばすべては解決するのに・・・。でもそれが一番難しいのだ。

 モロッコの少年の兄弟が、岩がごつごつした山の頂きで大きく手を広げるシーン。そして、女子高生が生まれたままの姿で、母を亡くしてからこんなに泣いたことはないだろうと思えるほど号泣するシーン。
 このシーンに、僕は、子を持つ親として涙が止まらなかった。圧倒的な現実を超越する優しさがそこにあるのだ。人生いろいろあるし、運命を素直に受け入れなければならないことも多いが、こういう無垢の心は、いつまでも大切にしてあげなれば、と思わせてくれるのである。

 そして、その無垢の心が、多かれ少なかれこの作品の当事者である大人たちに伝播することで、たとえ運命に翻弄されたとしても、確実に固定観念を打ち破るエネルギーが宿るのである。

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物語
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