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バベル (2006)

BABEL

監督
アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
  • みたいムービー 1.0万
  • みたログ 1.7万

2.93 / 評価:3955件

「読解力」と「感得力」が問われています。

  • ccp***** さん
  • 2007年4月30日 12時03分
  • 閲覧数 2417
  • 役立ち度 286
    • 総合評価
    • ★★★★★

意外にネガティブなレビューが多かったので、ちょっと構えて観に行ったのだが、杞憂だった。時間軸のずらしはあるが、全体を通して監督の真摯な思いがダイレクトに伝わる、明解な作品だった。
 「コミュニケーションって難しいなあ、人間は分かりあえないのかなあ」という普遍のテーマを主に3つの局面から照射するのだが、この3つの局面の配分が見事だ。第1の舞台は、アメリカと対立するイスラム圏(モロッコ)。そこでは、「貧困」や教育の欠如ゆえの暴力から生まれた悲劇が描かれる。2番目の舞台は、アメリカに隷属寸前のメキシコ。そこでは、アメリカへの「劣等感」から生まれた悲劇が描かれる。そして3番目は、アメリカ以上にポップカルチャーを「爛熟」させた日本。ここ日本では、「貧困」といった明確な図式、「劣等感」といった比較的対立を想像しやすい図式はなく、「爛熟」ゆえの複雑で繊細なコミュニケーション不全の有り様が描かれている。だから、モロッコでの悲劇のターニングポイントは引き金を引いた瞬間で、メキシコ国境での悲劇のそれはアクセルを踏んだ瞬間、とはっきりしているのに、日本では何が悲劇なのか、そのポイントは曖昧なままだ(それでも切なく悲しく感じてしまうのは監督の力量だろう)。
 このように様々なレイヤーで「やっぱり分かりあえない人間の悲劇」を描き出そうと監督は試みているのだ。と考えると、「日本のシーンは不要では?」と言った感想は当たらない。また、「日本の女性をふしだらに描いている国辱映画だ」という意見も全く当たらない。むしろそんな見方しかできない読解力の低さにちょっと哀しくなった。
 かの筒井康隆氏が、「やはり読者には読解力が必要だ。昨今の分かりやすすぎる小説の濫立は、確実に若い読み手の読解力を奪っている」といった主旨の発言をされていた。この映画(とその感想)を観て、そんなことを思い出してしまった。「コトバで上手く説明できないけど、切実に訴えたいこと」をなんとかして伝えようと、小説は書かれ、映画は創られる。なぜ日本人の聾の彼女は、刑事の前で突然裸になったのか。なぜそのシーンがエロチックではなく「悲しい」と感じ取れてしまうのか。これは文章=論理だけでは伝えられない。そんな、コトバで説明しようとするとこぼれ落ちてしまう感情の綾を、なんとかして、映像で、演技で、演出で、音楽で、感じ取らせようとする監督の努力。ここは、十分に伝わるし、堪能できた。
 

詳細評価

物語
配役
演出
映像
音楽

イメージワード

  • 悲しい
  • 知的
  • 切ない
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