ここから本文です

天国はまだ遠く (2008)

監督
長澤雅彦
  • みたいムービー 330
  • みたログ 632

4.15 / 評価:295件

底なし沼が潜む癒し系映画の傑作

今回取り上げるのは2008年の日本映画『天国はまだ遠く』。風光明媚な田舎を舞台にして、登場人物や観客が疲れた心を癒すジャンルとしては05年の「かもめ食堂」が最も有名だが、こういう映画は時代に関係なく必要とされているのだろう。私的評価は文句なしの★5つである。このタイトルは自殺を企てた主人公・千鶴(加藤ローザ)が少しずつ生きる事に前向きになっていく、心情の変化を表している。
監督は長澤雅彦で、有名な作品としては「夜のピクニック」「13階段」がある。本作の製作委員会には吉本興業が名を連ねており、主役の一人であるチュートリアル・徳井義実のほかに宮川大助、南方英二、海原はるかといった関西の芸人が多く出演している。笑えるシーンもあるにはあるが、全体的にはシリアスな作風である。

音楽は渡辺俊幸が担当しており、秋から冬に移り変わる山里の風景によく合う悲しげなピアノが印象的。エンディングに流れる主題歌は熊木杏里の「こと」。サビの部分の静かな盛り上がりが胸を打つ名曲である。音楽といえば忘れてならないのは廃屋に放置された古いピアノが音を奏でる場面で、千鶴の心の再生を象徴しているのだろう。
本作の舞台は若狭湾に面する京都府宮津市で、日本三景の「天橋立」が有名である。古都・京都のイメージとは異なる、入り組んだ海岸線と山里が一枚絵に収まった風景は息を呑むほど美しい。「民宿・田村」の看板に「絶景の宿」と書いてあるが看板に偽りなしである。私は兵庫県の西宮市に住んでいたとき低山歩きと温泉巡りを趣味としていて、北近畿にも何度か足を伸ばしたが宮津市には行ったことがなかった。

自然だけでなく文化財も映される。ひとつが市街地にある歴史のありそうな教会で、千鶴と田村(徳井義実)が礼拝に参加して讃美歌を歌う。最後のほうで壊れたピアノを調律して川原さぶが演奏し、それに合わせて妻の絵沢萌子が讃美歌を歌う場面もあり、こうした一連の場面を見るとキリスト教がこの地に定着しているようである。どのような歴史的背景があるのか興味をそそられる。
教会の場面の直前では田村が収穫した農作物を神社にお供えするが、仏教・神道・キリスト教といった異なる宗教が溶け込んでいる日本ならではの光景である。ここで田村が「オレ、人殺しやから」と作中で最も重要なセリフを呟く。千鶴はエッという顔をするが、生きていくために他の命を頂く意味だと合点する(本作のテーマの一つでもある)。本当の意味を知らなくて良かったと心から思う。

もう一つの文化財がメガネ橋で、古い橋脚はかつての鉄道跡であろう。私は福知山線の生瀬駅と武田尾駅の間にある廃線跡が好きで、トンネルや鉄橋を渡って迫力ある武庫川の眺めを楽しんだ事を思い出した。
メガネ橋は自殺の名所でもあるそうで、千鶴は死に場所を求めてさまようもののここをスルーして民宿・田村にたどり着いたわけだ。劇中では他に自殺者が出たらしく、この場面で現場検証する刑事として登場するのがチャンバラトリオの南方英二だ。南方さんは2010年に亡くなっているから、本作は晩年に近い作品という事になる。
「生きているとか死んでいるとか、境界線は何やろうな?本人に聞いてみるしかないだろうが・・・」。田村に語りかける刑事のセリフである。かつての婚約者(藤澤恵麻)の腕時計を渡される、田村の表情が痛ましい。この場面に登場するのは二人ともお笑い界の人なのだが、笑いの要素は全くない。死を望んでいた千鶴が生き残った分、神様は別の人を選んだのでは?そう感じて寒気がしたシーンである。

私が怖さを感じた場面は他にもある。自殺を諦めた千鶴が田村の軽トラに便乗して買い物に出かけるシーン。「町まで何時間くらいかかるの?」と聞くと、田村が「車なら30分くらいで着くよ」と答える。「なーんだ、物凄い奥地に行ったと思ったらそうでもなかったのね」と笑う。死に場所を求めてタクシーに乗っていた時の千鶴は時間の感覚を失っていた。つまり精神は「向こう側」に引き寄せられていたわけだ。
千鶴の手紙によってかつての恋人(郭智博)がやって来る。彼に携帯メールで別れの挨拶をしていたのだが、彼は「長期で旅行するために会社を休んだ」としか思っておらず、彼女の深刻な事情について知らなった。それを聞いた千鶴は「全然伝わっていなかった。私ってダメだ」と自嘲気味に笑う。
千鶴が自殺できたとしても、最も親しい恋人にさえほとんどインパクトを与えなかったのでは?現実なんてそんな物かも知れない。近しい人が自殺するものの、周りの人はまるで心当たりがなく、いつしか死んだ人の存在は忘れられていく。こんな事が日本で当たり前のように繰り返されている、その事実を思って怖くなった。「癒し系ムービー」の体裁をとりながら、実は底なし沼のような怖さを幾つも秘めている。それが『天国はまだ遠く』の正体だと思う。

詳細評価

物語
配役
演出
映像
音楽

イメージワード

  • 泣ける
  • 笑える
  • 悲しい
  • ファンタジー
  • 恐怖
  • 絶望的
  • 切ない
  • かわいい
  • コミカル
このレビューは役に立ちましたか?
利用規約に違反している投稿を見つけたら、次のボタンから報告できます。 違反報告
本文はここま>
でです このページの先頭へ