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日輪の遺産 (2010)

監督
佐々部清
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3.50 / 評価:541件

野口先生のような立派な先輩は誇り

  • 百兵映 さん
  • 2015年3月18日 18時31分
  • 閲覧数 2260
  • 役立ち度 1
    • 総合評価
    • ★★★★★

 映画作品としては、突っ込み所はあちこちに見られる、敗戦処理・戦争責任という重いテーマへの真摯な向き合い方にも突っ込み所は見られるけど、何よりも「野口先生」に引き合わせて貰ったことを喜び、そのことについてのみ若干の感想を……。

 敗戦時対応の極秘任務を終えた女生徒たちに異変(犠牲)が起こる。顛末を知った引率の先生は、現場指揮に当たっていた軍人の銃を奪い取って、異変現場である壕の中に走る。明らかに、子どもたちのところで自殺する雰囲気だ。この任務と異変については軍の命令によるものだから民間人である野口先生には何の責任もない、はずだ。ところが彼はいう。

 「私は生徒たちを引率せねばなりませんから」

 つまり、天国に旅たった(自宅に帰れない)のであれば、そこまで引率するのが教師の務めだ。それには自分に銃弾を打ち込まないと天国への引率はできないではないか。生徒たちへの教師の責任を全うしようというのだ。

 現場責任者である軍人がいう。
 「野口先生はご立派な方だった。」
 「あんなすばらしい教育者を非国民呼ばわりした連中は大ばか者だ。」
 折角だけど、軍人さんからは言われたくない。野口先生が「ご立派な方」であったように、あなた方も「ご立派な方」・「すばらしい軍人」として責任をおとりいただきたい。

 戦争を実行するのには国威発揚の教育が大きな役割を担う。それはどこでもやっていることだが、問題は敗戦における教育者たちの振る舞い方だ。それまでの教科書を“嘘”であったとして墨で塗りつぶさせた、その時の教師の心ちゅうはどうであったのか。

 嘘であったと言わせられる口惜しさであったか。
 時勢がそうであったという諦めか。
 自ら改心(? 転向?)して新時流に乗ったか。
 生徒たちに心から詫びたか。

 そういうことを追求する権利は私にはない。だが、価値観が180度逆転する時の、指導者・責任者の振る舞い方だ。これだけ鮮やかに責任を行動に表された「すばらしい教育者」に出会うと、そうでない「普通の?教育者」がどうであったのかを知りたくなる。

 往々にして、責任の所在はうやむやにして、重大な決断・決定は先送りにすることが多い。そのことが周辺国からも揶揄される。必ずしも“自虐的”歴史認識である必要はないと思うけど、上に立つ者は下の者に、指導者は指導される者に、加害者は被害者に、自分の立場での責任は(更に上の立場からの命令を待たずして)、自分の立場で判断し、表明し、実行するというグローバル・スタンダードを共有したいではないか。

 帝国陸軍からの伝令が現場指揮官に「大義の前に個人の思惑など無用。帝国陸軍の軍人がそんなことも理解できぬのか?」と詰め寄る。これが戦場。ところがGHQの軍事裁判になると「個人の思惑など無用」の時勢だったという言い訳が通用しない。末端の指揮官にまで「個人の思惑(良心?)」を発揮しなかった罪が及ぶ。それが現在のグローバル・スタンダードなのだ。

 野口先生のような「ご立派な方」「すばらしい教育者」が居られたことは、後世の我々にも救いである。実は私は野口先生が他界された年の生まれで、その後長いこと小学校の先生だった。引率の責任、後々問われるかもしれない指導の責任、というようなことが気になって(ビクビクしながら)子どもたちに向き合っていた。現職の間に野口先生に出会えたらもっと楽に仕事が出来ていたかもしれない。私の場合、この映画は野口先生のことだけ。

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