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大鹿村騒動記 (2011)

監督
阪本順治
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3.59 / 評価:419件

なんだかんだで人生は良いもんだ

  • hin******** さん
  • 2012年1月27日 22時31分
  • 閲覧数 300
  • 役立ち度 3
    • 総合評価
    • ★★★★★

 本作の監督である阪本順二のカメラワークが筆者はあまり好きではない。彼が表現したいことはわかるのだが、その表現方法があまりに直接的且つ説明的で、見ていて奥行きが感じられないのである。しかし、本作ではお手本のように役者陣の芝居をただ引き目で撮り、作品に奥行きを出している。つまり彼は何もしていない。しかし、無駄に人工的な手を加えるよりも、役者陣のそのままの演技をカメラに収めることによって、役者たちの演技から演出という人工的な工夫を媒介せずに、観客が直接何かを受け取れるのである。それは本作のテーマである大鹿村の歌舞伎とも通じる。おそらく観客のほとんどは歌舞伎のシーンにおいて舞台上で何が具体的に行われ、台詞によって話されているかを完璧には理解できないだろう。その補完的な役割として瑛太と冨浦智嗣の存在がある。しかし、このシークエンスで真に重要なのは劇の内容を理解することではなく、舞台上で行われている役者たちの生の演技から何かを受け取ることである。役者の生の演技が見られるからこそ、舞台に存在理由があるのであり、それは映画には不可能なことだ。阪本はその上で、それでも可能な限り役者たちの生の演技を観客に伝えるために本作のようなカメラワークを採用したのではないだろうか。本作のカメラワークと本作の軸である大鹿村歌舞伎の関係は不可分的で、本作においてこの両者が同居していることは偶然でもなんでもなく、極めて必然的な結果なのである。
 阪本がカメラワークにおいてこれまでの決して好ましくはないスタイルを排し、無為の姿勢を貫けたのは紛れもなく、そして言うまでもなく本作のとんでもないキャスト陣の力量にある。原田芳雄、大楠道代、岸辺一徳らの主要キャラを始め、脇にも名優という言葉が凡庸に思えるくらい凄い人たちがひしめき合っている。三國連太郎の言葉には劇中でそれまでの三國演ずるキャラクターの人生背景が描かれていないのに、言いようのない重みがあり、悟りの境地に入っているのではないかと思うほどであった。おそらく入っている。また、大御所がずらりと並ぶなかで、松たか子は輝きを失っておらず、彼女の単独主演では比較対象が存在しなかったためにあまり見えてこなかったいわば"女優力"のようなものを見せ付けられた。天晴れである。
 本作はなんと言っても「引きの画」である。それは本作に通奏低音として流れる雰囲気をも体現している。村は歌舞伎の日が近づいても、稽古だけになかなか集中できない。リニア建設の話で共演者同士がケンカをして歌舞伎の役を投げたり、18年前に駆け落ちした主人公の妻と親友が突然帰ってきたり、台風が直撃して歌舞伎の役者の一人が怪我をして出演できなくなったりと、尋常でないことが立て続けに起こる。しかしそれを本作はあまり深刻に捉えていない。その証拠に、本作の上映時間を確認してみればわかる。たったの93分である。しかも歌舞伎の時間がかなり長かったから、これらの事件が描かれている時間は実に短いであろう。さらに、登場人物たちもそれらを悲観している様子は見られず、懐の深い姿勢で対応しているように見られる。つまり、作品は、そしてキャラクターはある種達観の域に入っており、事件それぞれを個別に捉えるのではなく、それらまるごとひっくるめて人生であると考えているのである。それを具現化しているのが「引きの画」だ。
 本作に感じられる悟りの境地はラストシーンで一気に噴出する。貴子(大楠道代)が「善さ~ん」と言って駆け寄った先には治(岸辺一徳)がいる。それを善(原田芳雄)が後ろから見つめ、画面は空撮に切り替わる。男2人が貴子を優しく見守る様子が見て取れ、カメラはそんな3人を温かく見守っているように見える。「仇も恨も是まで是まで。」である。

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