ここから本文です

別離 (2011)

JODAEIYE NADER AZ SIMIN/NADER AND SIMIN, A SEPARATION

監督
アスガー・ファルハディ
  • みたいムービー 1,566
  • みたログ 1,327

4.07 / 評価:524件

二重の裁判映画

  • zuk***** さん
  • 2014年4月24日 1時33分
  • 閲覧数 1232
  • 役立ち度 9
    • 総合評価
    • ★★★★★

 イランの映画監督アスガー・ファルハディ(一九七二~)の最新作『別離』は、ベルリン国際映画祭の最優秀作品賞である金熊賞、米国アカデミー賞の外国語映画賞をはじめとして、二〇一一年に開催された世界中の映画祭で各賞を総なめにした(獲得した賞は九十を超える)、現代映画における一つの到達点と言っても過言ではないほどの傑作である。本作は二十一世紀のイラン社会を舞台にした、人々の嘘と嘘とが複雑に絡み合う優れたサスペンス映画であるとひとまずは言えるであろう。しかし本稿で主題として扱うのは、本作が観る者をその外部へ、観る者自身へと導いていくという事態である。

 物語は夫婦が離婚調停のためにそれぞれの主張を民事裁判所の判事に訴えるシーンから始まる。妻シミンは一人娘テルメーの教育と将来のためにイランを出て外国で暮らしたいと考えている。それに対して夫ナデルは、アルツハイマーの父を残して国を出ることはできないと言う。それで妻は離婚を申し出る、というわけである。
 協議は物別れに終わる。結局妻はすぐ近くの実家に戻り、夫は娘と元の家に留まる。こうして別居生活が始まることになり、夫は家事や父の介護のためにラジエーという家政婦を雇う。ところがある日、夫と家政婦との間で事件が起こる。物語はこの一つの事件を端緒として大きく動き始め、これを巡って夫婦と娘、家政婦とその夫とによって、自分と家族を守るための嘘が重ねられていく。
 家政婦はこの事件のことでナデルを告訴し、裁判を通して事件の真実が次第に明らかになっていく。物語の終盤、シミンがラジエーに対してある決定的な背信を犯し、それによって物語は一つの破滅を迎える。夫婦は最後には離婚することを決め、テルメーは両親のどちらと暮らすかを選ばなければならなくなる。テルメーが判事に対してその答えを告げる前に、映画はエンドロールを迎える。

 以上がおおまかなあらすじであるが、この映画をとりわけ優れたものにしている要素の一つは、それが二重の意味において「裁判映画」と呼ぶことのできるものであって、そこにおいて外部へと開かれているという点にあるように思われる。
 まずあらすじで述べた通り、本作はナデルとラジエーとの間に起こった事件を巡って裁判が行われるという、普通の意味での裁判映画である。しかしそれと同時に、この映画は物語世界を超え出て、現実を巻き込んだ形でもう一つの裁判を提示する。被告としてのナデルとシミン、判事としての観客という構造を成しているのである。
 この映画がメタ的な意味での裁判ものであることが示されるのは最初のシーンである。最初のシーンとは夫婦が離婚調停を行う場面であり、この二つのショットにおいて、カメラは夫妻の話を聴く判事の主観視点であり、映画的に言えば判事=観客なのであって、ここで登場人物は判事としての観客に語りかけていると言うことができるだろう。
 私たちは判事として二人の訴えを聴き、どちらの主張に理があるだろうかと考える。すでにこの初めのシーンから、映画は私たちに問いを投げかけていたのである。そしてそこから始まる物語を通して、彼らの言動、行状を観察することになる。
 課された問いに対しては答えを出さなければならない。しかし最後のシーンでテルメーの選択が観客に知られることはない。このことは構造上必然的な帰結と言えよう。なぜならナデルとシミンのどちらが信頼に値するかという問いは、観客である私たちに提出されたものだからである。それはテルメーの問いであると同時に、観客である私たちの問いでもある。
 しかし答えを出すことなどそもそもできるのだろうか。テルメーが涙を流して口ごもったように、私たちも物語の悲劇的な結末の責めをどちらかに負わせることはできないのではないか。エンドロールで互いに少し離れたところに立ってテルメーを待つナデルとシミンを目にしながら、どうしようもない袋小路に行き着いた私たちは、沈黙するより他ないだろう。

詳細評価

物語
配役
演出
映像
音楽

イメージワード

  • 悲しい
  • 知的
  • 絶望的
このレビューは役に立ちましたか?
利用規約に違反している投稿を見つけたら、次のボタンから報告できます。 違反報告
本文はここま>
でです このページの先頭へ