4.0点
こういう状況ってのは、いつでもどこにでも起こり得ること。最愛の家族の突然の死。幼児が遺された場合の家族の苦闘は相当のものだ。再起の道に乗れるか、地獄に誘い込まれるか、それは紙一重のところで分かれる。 誰が悪いというのでもない。誰の責任ともいえない。誰かが助けの手を出そうにも、出しにくい事情がある。どうしようもない。それなのに、今を乗り越えるために待ったなしの対応が次々に追っかけて来る。疲れる。 家族内の各人各様の堪え忍び。母は親としての責任がある。子どもには親の愛情を求める我が侭が出る。兄弟姉妹の助け合いにも限度がある。母だったら新しい父が欲しくなるのも当然、決して不貞ではない。でも、そんなことが分かる年齢の子どもたちではない。 そういう事例は身近なところで何回も遭遇した。どうにもならない。あるいは、どうにかなる。なるようになる。そう思って、ハラハラしながら見守るのみ。一番辛いのは母(または)親。頑張りにも限度があるのだが、それでも頑張るしかない。紙一重の限界を乗り越えられるかどうかだが、そのうち思わぬことが起こったりする。捨てる神あれば拾う神ありという。 この映画の舞台はオーストラリア。でっかい国の大らかな人々の場合はどうか ―― 基本的には同じことだなと思った。 思いも寄らぬ大災害、まさかの事件・事故遭遇、予期せぬ突然死、等々、家族の不慮の死の場合にどう生きるか……、そんなことを考えていたら生きて行けない。全員が生命保険に入っていても、それだけでは備えにならないことがこの家族から教えられる。では、自分のところでも『パパの木』を植えておくか。いや、ここではこの『木』が障害になった。 つい先日観た『パパが遺した物語』というのがある。パパは(ママも)、『木』(に相当するもの)や『物語』を残しておく必要があろう。それも、日々更新しておかないといけないようだ。