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ホドロフスキーのDUNE
2014年6月14日公開

ホドロフスキーのDUNE

JODOROWSKY'S DUNE

902014年6月14日公開

映画の夢

2.0

存在しない作品はいくらでも絶賛できる

私はホドロフスキーが好きでもなければ嫌いでもない。アップリンク吉祥寺でのリバイバル上映でこの映画を虚心坦懐に見たのだが、いやいや、漂う怪しさを押さえきれなかった。 インタビューを受けた人々ほぼ全員が『DUNE』をほめたたえている。存在しない作品だから確認のしようがなく、肯定しようが否定しようが勝手となるわけで、いささか卑怯な気がする。また、映画には『DUNE』の製作を拒否したハリウッド側の人物がまったく登場していない。しかも、ホドロフスキーは芸術=善、ハリウッドは商売=悪という、それこそ子供じみた紋切り型のイメージ操作をはめ込んでいるのである。これはうさん臭い。 『エル・トポ』がすばらしい作品であったことは認める。詩か散文かで言えば映画は明らかに散文なのだが、『エル・トポ』はストーリーや人物描写といった散文的な部分を可能な限り切りつめ、斬新な詩的映像をちりばめた稀有な作品であった。ホドロフスキーは映画を構築的に作るのではなく、直観的に作る人なのだなと思ったものだ。 とはいえ、中身うんぬんは別として『エル ・トポ』が成功した大前提の理由のひとつは、それが二時間(百二十三分)だったことにあるという、この事実を忘れてはいけない。ホドロフスキーは『DUNE』を短くても十二時間の作品にしようとしていたらしいが、これはもう異常と言うほかはない。 アルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスは「数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」と言って、生涯、節度ある長さの短編しか書かなかった。 もう少しさかのぼると、十九世紀アメリカの御存じエドガー・アラン・ポーは、読書する際の人間の集中力には一定の限界があるとして、詩の長さには制限が必要だと主張した。私も同感で、映画を見る観客の集中力にも限界があると思う。せいぜいで三時間くらいまでではないか? もし、ホドロフスキーが「自分は天才なのだから、十二時間の映画を作っても許される」と言うなら、おそるべき誇大妄想である。 『七人の侍』は三時間二十七分あるが、あれはとてつもなくおもしろい散文的ストーリーが綿密に展開するから、見ている側も耐えられるのであって、もし『DUNE』が『エル・トポ』のような詩的イメージで十二時間続く映画として作られていたら、見る側にとっては地獄の責め苦になったであろう。 ピンク・フロイドに音楽を依頼した時、まともに相手をしないメンバーに対してホドロフスキーは「人類最高の作品に関われるチャンスなんだぞ」といったせりふを吐いたらしい。そんなせりふをよく言えるなと思うが、そんなせりふを言ったことを四十年以上も過ぎた今、よくも自慢げに語れるものだとも思う。ナルシストにもほどがある。絶対に友人にはなりたくないタイプだ。 ホドロフスキーの才能を一応は認めながらも、ハリウッドが出資を拒否したのは当然であろう。後世への影響にしても同様だ。ギーガーやクリス・フォス、ダン・オバノン、メビウスらの宇宙船デザイン、キャラクターデザイン、セットデザインなどの個別の部分が個別に影響を与えただけであって、ホドロフスキーがトータルに影響を与えたわけではない。なぜならーーもう一度言おうーーホドロフスキーの『DUNE』は存在しないからである。

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