ここから本文です

フューリー (2014)

FURY

監督
デヴィッド・エアー
  • みたいムービー 373
  • みたログ 3,187

3.49 / 評価:2,603件

やすじろう

  • cin***** さん
  • 2014年12月9日 9時09分
  • 閲覧数 1100
  • 役立ち度 1
    • 総合評価
    • ★★★★★

ブラッド・ピット扮するドン・コリアー軍曹は迫り来る300人のドイツ兵に対し、地雷を踏んでしまい動くことも叶わぬシャーマン戦車「FURY」と軍曹を含む乗組員5人という状況を前にして、決断を迫られる。つまり「逃げる」か「戦う」かであるが、ドン軍曹は4人に「俺は残って戦う、お前たちは行け」と言う。

この決断は「FURY」と共に死ぬことも同然であり、その証にドン軍曹は「作戦はあるのか?」と問われ考え込んでしまう。そもそもこの決断の理由はいくつか挙げることができる。任務の遂行か、仲間の命を優先するか、憎きSSを殺す絶好の機会とみるか、戦火を共にくぐり抜けた「FURY」に対する情なのか。

このいくつかの理由にも、ある程度順番をつけようとすれば、出来ないこともないだろう。仲間を逃がすことで、任務の成功率が下がることになるのは明らかであり、そのことを歴戦の勇士であるドン軍曹が分からないはずがなく、従って「お前たちは行け」という言動が示唆するものは、任務よりも仲間の命を優先した発言である。

SSを殺す機会と捉えたにしても、先程の説明と同じように、仲間の命の優先順位のほうが高い。そうしていくと、ドン軍曹は仲間の命を最優先するが、自分だけは絶望的な任務だろうと逃げたくない、そう直感的に判断した、と解釈できる。

映画を見ている時は「何を考えてる!」と怒鳴る仲間に「ここが俺の家だ」と言ってFURYに手を置いた時、ドン軍曹を絶望的な任務に引き止めたものは、戦火を共にくぐり抜けたFURYに対する情愛なのだろうか?と考えた。そうした解釈も可能だろうし、これ以上の限定は、人間の見方を狭めてしまうことになるから、結論に移ろう。

以上に述べたかったのは、「人物描写の深さ」である。素晴らしい人物描写であるからこそ、物語の構造として引き金をひき、葛藤を生み出し、この映画を始めて経験する観客の役割を引き受けたローガン・ラーマン扮するノーマン青年に、いささか寄りすぎていたのではないかという心残りがある。

ノーマンに起こる戦争を通した感情の変化は、急ぎ足で行われた。制圧したドイツの村で出会った女性、エマとのひと時の違和感。エマにしてみれば、2人の兵士(ドンとノーマン)がアパートに踏み込んできたのだから何をされるか分からない状況である。しかしエマはピアノを弾いてみせるノーマンの横で楽しそうに歌い、あまつさえ身体を許すのである。ノーマンにとって初めての女性エマはその直後にノーマンの目の前で、ドイツによる空爆で死んでしまう。

家族の写真を見せ命を乞うドイツ兵に対し、自分では引き金を引けなかったノーマンは、この場面を分岐点として、躊躇なく引き金をひく。この「ノーマンの変化」には、エマという女性が必要であったが、その必要性が優先されてしまい、エマの人物描写は軽視されている。作品全体を通して素晴らしい人物描写だからこそ、軽視されたエマの人物像は、より浮かび上がっしまったのではないか。

この「ノーマンの変化」が私が感じた違和感の原因であり、「エマの人物描写」がその違和感を決定づけた。後付けで恐縮だけれど、この変化は必要であったか。その感情の変化は、ノーマンという青年(に)ではなく、この青年を通して観客に委ねるべきではなかったか。

例えが悪いが、善人が少し悪いことをすると印象が悪くなるのに対し、悪人が少し良いことをすると印象がよくなる、ということがある。そういった意味で、この作品は前者であり、完璧であるがゆえに、わずかな傷が印象を悪くしている。多分これが私の「心残り」の正体なんだろう。

詳細評価

物語
配役
演出
映像
音楽

イメージワード

  • 未登録
このレビューは役に立ちましたか?
利用規約に違反している投稿を見つけたら、次のボタンから報告できます。 違反報告
本文はここま>
でです このページの先頭へ