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ジミー、野を駆ける伝説 (2014)

JIMMY'S HALL

監督
ケン・ローチ
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3.54 / 評価:106件

芸術は決して個人を見捨てない

  • 文芸サロン さん
  • 2015年1月28日 17時23分
  • 閲覧数 542
  • 役立ち度 10
    • 総合評価
    • ★★★★★

英国文学は伝統的に貧困層に焦点を当てる傾向がある。ディケンズなどはその代表格といえる。この伝統は映画の世界にもしっかり継承されているといえる。中でも本作の監督、ケン・ローチにはその傾向が強い。
 本作は実在した人物を主人公としている。原題は「ジミーのホール」で、この映画の主人公、ジミー・グラルトンが村に作った小さな公会堂(ホール)のことだ。
 このホールで彼は、今でいう公開講座みたいなことを主宰する。内容は文学、ダンス、手芸などの庶民的なものばかりだ。どれも無料で受けられる。こうして彼の主催するホールは、村の小さな交流の場となる。
 とまあ、無縁社会といわれる今日であれば市町村辺りから感謝状でも貰えそうな奉仕活動なのだが、時代と社会が異なればこうも扱いが違うのだ。
 時代は1932年とあり、世界大恐慌の最中だ。舞台となるアイルランドは、その当時不況をもろに受けて、多数の移民がアメリカにわたっている。ジミーも10年間の渡米生活の後に帰ってくるのだが、出稼ぎでわかっていたのではない。彼の場合、権力者に狙われていたので亡命したのである。
 この時代相には、当時の社会情勢をある程度理解したほうがわかりやすい。当時はソ連が誕生して、世界各国に社会主義革命の衝撃が広まっていた。さらに舞台のアイルランドでは宗主国イギリスからの独立運動の真っ最中であった。そんな多重の状況によって、庶民は権力者たちから厳しく監視される立場にあった。無許可の集会とか勉強会は、それだけで反社会的活動とみなされる恐れがあったのである。
 ジミーが目指すものは、そんな社会革命とは無縁のものだった。彼にとって、ホールは庶民のささやかな生活のうるおいの場と考えていただけのことなのだ。ところがそんな社会情勢が彼を反体制の英雄に祀り上げてゆくのである。
 映画は明確に体制側に批判的な立場である。体制側とは映画ではカトリック教会とか地主(貴族階級)だが、今日の富裕層を揶揄していることは明らかだ。格差問題ということへの厳しい視線が見て取れる。世界に蔓延する至上主義や高度資本主義に対して、映画は嫌悪感を隠さない。
 だがそれは社会闘争の意味合いでないことは、映画のラストで明らかになる。結局権力には勝てず、ジミーは永久追放でアメリカに追いやられることとなる。その最後の場面は、ホールに来ていた学生たちだ。彼らとの別れはピーター・ウィアー監督の名作「いまを生きる」の感動的なラスト・シーンを思い起こさせるものだ。
 映画は権力への強い反骨精神に満ちている。ただし本作の反骨はイデオロギー(思想)に基づくものではない。それは芸術的な反骨である。それゆえにより人間的な息遣いの感じられる怒りを伝えるものなのだ。その証拠には、ジミーがある家族を救うかどうかで仲間たちと討論する場面の扱いである。いろんな意見が出て結論はなかなか出てこない。結果ジミーの選んだ行動は、不幸な母と子のためのものであったのだ。
多数のために個を犠牲にするのが社会なら、個に視線を向けるのが芸術である。本作と「いまを生きる」のテーマはこの点でも響き合っている。

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