3.0点
このタイトルって、「絶望には正面から向きあわず逃げて逃げて逃げまくれ」という意味になりえますよね。 私には実際にそう言ってる映画に見えました。 この映画、ストーリーのつながりや、登場人物の思いは、言葉ではほとんど表現されず、映像による「暗示」だけで組み立てられています。 だから、ぼーっと見てると印象としては、何かとても深いものが奥底に隠されているように見えます。 でもね、じっくり思い返してみると、この映画、じつは心理描写というものがほとんどないんですよ。 漣がこんな旅に出ずにいられないほど薫の死を受け入れられず、理沙子に嫉妬したなんて言うほど薫の存在を必要とするようになった理由は何なのか。 漣に共感しながらこれを見るには、そこのところがきちんと描かれてる必要があります。ところがここでは、2人が単にゲハゲハいってじゃれあって、一緒に朝まで飲んで朝焼け見て、っていうシーンしかありません。 これではこっちは、同居するほど仲良かった友人の自殺がショックなのはわかるけど、ここまでそれを抱え込んで思い詰めるって、なんか「自分のせいだ」という罪の意識でもあるのかな、いやそれにしては、最後に描いた女性を追いかけるって筋が通らないな、何考えて旅に出てるんだろ、と首かしげるだけで、全然共感などできません。 漣と薫の間にあった「心のつながり」の実体が、まったく描かれていないからです。 理沙子がこの旅についていった理由も、同じようにまったく描かれていません。 理沙子はかつて薫の彼女だったということが、会話のはしばしに示されてるだけで、つきあってた当時に薫にどんな思いを抱いていたか、別れた時にどんな心情だったか、そういうことのリアルな描写ってものが、この映画ではズッポリと全部抜け落ちてるから、漣が旅に出ると言った時に彼女が「私も行こうかな」といった理由は、ただの気紛れにしか見えません。 全編がそういうふうなんですよ。 登場人物たちが、なんだかすっごく思い詰めて、落ち込んで、悲しんで、絶望している「空気」だけはたっぷりと伝わってきますが、「どういう事情で」「何を考えて」そういう絶望に陥っているのかという「心理描写」は、この映画にはまったくといっていいほど、ありません。 だからこの映画、ぼーっと見てて感じるほど深い映画では全然ないと私は思います。 ただ、悪いことばかり先に書きましたけど、思考や論理がまったく欠けている代わりに、映像から「空気」を放射する力量は、この監督、図抜けてますね。 漣と薫が深夜から夜明けまで町を歩くシーンなど、この時間に町を歩いた経験のある人には、町の空気のにおいや、静まり返った道路をほんの時たま通り過ぎる自動車が巻き起こす風の音のわびしさなんかが、ほんとにその場にいるみたいに感じられるでしょう。 湯船を映さず水滴の音だけで表現される風呂屋のシーンとか、旅の途中の風景とか、言葉では書ききれませんが、ひとつひとつのシーンを、目で見てるんじゃなくて、肌で感じてるような空気感は、ちょっと他では味わったことがないものがあります。 というわけで、ストーリー的にはは、絶望に向きあわずに逃げる道を見つけた男の話という、至極うすっぺら~い話なんですが、深く考えずに空気に浸って見てる分にはとても心地いい感覚を味わわせてくれる映画、ということで、プラマイ・ゼロの☆3つ。