秀吉の描き方と説法
- mitubajusiro さん
- 2019年4月2日 21時45分
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主人公の好演と随所にみえる安土桃山期の風俗描写で楽しませてくれる。
きっと華道の関係者方々、関心のある方々は面白いし見所がある映画なのだろう。
秀吉・利休ものは平成時代になって多作されたような気がする。とくに利休への視点が好意的で秀吉は権力をかさにきた悪辣三昧という役柄がお決まりである。
1970年代までは歴史上の人物で秀吉は屈指の人気者であった。1980年代とりわけ平成に入ってからはさえない。
この映画もそのご他聞にもれない設定になっている。
利休は秀吉と支配層レベルで対立したが、庶民層からのレベルに引き下げて秀吉に対立させる設定がこの映画の「目新しい」ところ。
下賎なくせに権力の高みにのしあがった秀吉が「絶対権力者」として自らを拘束している喜劇に目覚める、というところで映画は終わる。
つまり「花戦(はないくさ)」は花という「文」の力が権力という「武」を包摂することで世を客観させ勝利する戦いである。
もう少しいうと「白と黒はどちらが美しいか、桜と梅はどちらが美しいか」という問いに対して「どちらも美しい」と答えるのが正解であり、秀吉が世間から「猿」とさげすまれている(考証的にどうなのかはともかく)その「猿」の属性もまた「美しいし良きもの」と自覚するのが正解、という話である。
さて、映画とはそんな説法をするために作られるものか、という疑問が残る。見る人はそんな説法をされるために見るのか、と。
ハリウッド映画は陳腐な主張を映像の「ド迫力」でごまかしている。近年の日本映画もこの手の説法があふれている。
秀吉の人気が急降下した平成時代すなわちこの説法にふさわしい時代を象徴している。
閑話休題。
時代劇に欲しいのはかぎりなく「リアル」に当時を表現する映像技術。この作品の冒頭の京と小田原征伐期あたりの京の情景の対比に見るべきものがあった。人身売買、略奪、自力救済の殺伐とした世の雰囲気を出しつつ点景として人物描写する、令和の和風アラビアのロレンスを誰か作ってくれないか。
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