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わたしたち
2017年9月23日公開

わたしたち

THE WORLD OF US

942017年9月23日公開

isk********

4.0

ネタバレじゃあ、いつ遊ぶの?

この映画の主題となるのは、子供社会の中の人間関係の縺れ(それは特に攻撃的な形を取った時、「いじめ」と呼ばれる)であるが、大人たちにはそれが理解出来ていない―より正確に言うなら、彼らは日々の生活に追われ、子供たちにきちんと向き合う余裕がないのだ。劇中、親たちや教師が繰り返し言うのが、「話してくれないと分からない」という言葉だが、これは閉鎖的な子供社会の中で、嫉妬や反感、軽蔑といった感情の揺らぎから生じたものであるため、子供たちには言語化困難なものであり、よしんば説明出来た所で、大人たちの介入はしばしば事態を悪化させるだけだ。とは言え、子供たちの社会は大人たちのそれと全く別の原理で動いている訳でもなく、かなりの程度、大人社会の延長にある―ソンが仲間外れにされる理由の一つに経済格差がある(具体的には、そのせいで携帯電話が買えない、塾に通えないといった差異が生じる)、ということからも、それを窺うことが出来る。 興味深いのは、子供たちの人間関係の縺れには、親との関係も影を落としているということだ。ソンが遠回しに、前の晩に見たジアの父親について言及した時、突然怒り出したジアは、ソンの母親が作ってくれた弁当箱を引っ繰り返してしまうが(このせいで、折角もう一度近付きつつあった二人は、また引き離されてしまう)、ソンもまた、酔った父のことをジアに揶揄され激昂している。こうした自分の親への屈折した感情は、子供たちだけに止まらず、大人の言動にも影響を与えている―ソンの父は、年老いて入院している自分の父に(劇中では明らかにならない何らかの理由で)今なお怒りを感じており、妻が見舞いに行ったと聞いただけで不機嫌になる始末だ。だがジアとソンがあんなに怒ったのは、ただ自分の父親のことを馬鹿にされたと感じたからだけではなく、自分の身体の延長にある何ものかを侮辱されたと感じたからではなかったか。これは同時に、誇り、自尊心にも係わる問題だろう。劇中で、ソンがジアに対して怒りを爆発させ、取っ組み合いの喧嘩になるのは、面と向かって苛められっ子と呼ばれたことが切っ掛けになっていた。ジアのヘッドフォンは彼女の防衛機制の現れだが、これとても自尊心を守るためのものなのであろう。子供にそんな大仰なものがあるだろうか、と思う人もいるのかもしれないが、この自尊心が完全に踏み躙られた時、彼らは自殺という突発的な行動に出るのだ。 そうならないよう身を守る手段が嘘である。大人になるとは、この嘘というかさぶたで心を覆い尽くし、鉄面皮になることだ。一見して背も高く、大人びた所のあるボラやジアに比べて、小柄で幼い印象を与えるソンは、嘘というものがまだ良く分かっていない。だから彼女は、ボラに呼ばれて行った部屋で見知らぬ人に出くわしたり、塾の宿題があるから今日は遊べないというジアの家からボラたちが出てきた時に、当惑した顔をして立ち尽くしてしまう。口籠もりながらも、相手の言動の矛盾を問い直すソンは、ともすれば「鈍く」見えてしまうのだが、見方によっては、相手の意図を急ぐことなくゆっくりと確かめているのであって、そこには確かな知性が感じられる。ここで「嘘」と呼んだものは、人間関係において怪我をしないための方便であり、これは経験の産物である。しかしより多くの経験を積んだからといって、より深く物事を理解出来るとは限らない。そのことは、ソンが弟ユンに対して、自分を叩いた友達になぜやり返さないのかと叱った時、ユンが無邪気に口にした「ヨヌが叩いて、僕が叩いて、それからまた叩いて…じゃあ、いつ遊ぶの?」という言葉に端的に示されている。ユンはただ自分を開けっ広げの状態にして、友達と遊びたいだけなのだ。この映画において、子供たちは「大人とは別の存在」ではなく、「未経験な大人」として提示されている。しかもこの場合の「未経験」とは否定的な状態(=未成熟)なのではなく、まだ嘘によって自分の心を完全には覆っていないという意味で、開かれた可能性を持っているのだ。ソンの爪が、最後には何も塗られていない状態に戻っているのも、このことを暗示している。 この映画の最初と最後の場面では、子供たちがドッジボールに興じているが、これこそまさに子供社会の閉鎖性、暴力性を象徴する遊戯である。最後の場面においては、そのドッジボールのコートの外側で(つまりゲームの駆け引きの外側で)、ソンとジアが二人ぽつんと佇んでいる様子が映される。二人がお互いを正面から見詰め合い、まさに何事かが起こりそうなその瞬間に、この映画は幕を閉じるのだが、この結末は作り手からこちらに投げられた問い掛けではないだろうか―「じゃあ、いつ遊ぶの?」と言ったユンのように、私たちは傷つけられる危険を冒してまで、大事な人に向き合えているだろうか、という。

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