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打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか? (2017)

FIREWORKS

監督
新房昭之
武内宣之
  • みたいムービー 880
  • みたログ 9,314

3.06 / 評価:8330件

なぜ2学期出席していない? 玉の正体は?

  • kot***** さん
  • 2017年8月20日 15時35分
  • 閲覧数 10681
  • 役立ち度 163
    • 総合評価
    • ★★★★★

【傑作である原作のレビューも同時に投稿。単にノスタルジーの作品だと誤解されがちだが、原作の本質はエロス(性)とタナトス(死)だと考える】

売れ筋のエンタメに舵を切る英断をしたのだと思っていたら、思いのほか、原作愛の強いリメイク。
エンタメ改変と原作踏襲が、相半ばした結果、よく解らない中途半端な物語が生まれている。
観客には多くの疑問が残るはずだ。


●ラストシーン、2学期の教室に典道がいないのはなぜか?

これは「典道(となずな)は死んだ」という解釈が可能なように作られている。

灯台から2人で飛び降りるシーン、その後、電車から再び見た車の母親は泣いている。
そして、海の中を走る電車、これは、あの世へ向かうイメージの典型。
さらに、暗い夜の海への入水(原作版・プールへの入水の踏襲)
入水には、もちろん、自死の意味があり、原作においては、見事な映像表現によって暗喩されている。
なずなのセリフ「今度はどんな世界で会えるかな?楽しみだね。」も原作からのアレンジ。
「来世で会う」を想起させる言い回しに変更されている。

●「ifもしも」が起こる玉の正体は?

なずなは不思議な玉を海で拾う。
なずなが父親について語る回想シーン、水中に倒れている父親の手に玉が握られている。
以前の玉の持ち主は父親であり、偶然か必然か、なずなが受け継ぐ。
では、父親は玉の力を何に使っていたのか?
映画ストーリーの構造は「世代が替わり、繰り返す」が定石である。
つまり父親は、恋愛に奔放な母親との駆け落ちに玉の力を使ったのだろう。
しかし、現実には「ifもしも」の世界を作り出す事は出来ないので、父親も子供たちも悲しい結末を迎えることになる。
(なずなは「駆け落ちなんて出来ないって解ってる、それでも…」と語っている)

この解釈は、原作の「どちらを選んでも、なずなを(大人の抑圧から)救うことは出来ない」「出来ることは、少しの間寄り添ってあげるだけ」という、無力な子供時代の切なさと優しさを描く結末を元にしている。
「ifもしも」という可能性でなく、不可能性の哀感、を描いたのが原作であった。


これらの答えは、本作の解釈のひとつであり「典道は物思いにふけっていただけ」「玉は父親が残した娘への奇跡」などシンプルな解釈をすることも出来る。

しかし、それは本作が、解釈の幅がある内容の豊かな物語という事ではない。
単に演出が下手なため、制作者の意図が観客に伝わらないだけだ。

原作は小品ながら、見事な演出により文学的な豊かさを持っている。
比較してみることで、本作アニメ版の演出の欠点を指摘したい。

___

決定的な改悪点は、設定を小学生から中学生に変えたこと。
年齢を上げたことで、原作の魅力である「背伸びした性への興味」「灯台への冒険旅行」「大人に対して絶対に無力」などの危うさが、全て弱まっている。


「性への興味」は、原作の最も重要な題材である。

プールに寝転ぶなずなの鎖骨をアリが這うシーン。
汗ばんだ肌への執拗なクロースアップは、典道の緊張した視線。
恐る恐る手を伸ばし、なずなの肌に触れる。

本作では、これが、頬にとまるトンボに改変される。
アニメ画には湿度を感じないうえ、無駄な引き画がワンカット挿入され緊張感がない。
トンボは触れる前に飛び去ってしまう。

本作での、なずなの肌に初めて触れる瞬間は、インターホンを押そうとする腕を掴むシーンだ。
典道の決意を強調したいのだろうが、腕をわし掴むという行為には、まるでトキメキや色気がない。


典道がウンコをしていると、朝食がカレー。
祐介が執拗にウンコジョークをかます。
何度も笑えないウンコネタが有るのは、原作の2度の小便シーンへの安易なオマージュであろう。
しかし、原作の小便には、それぞれちゃんと意図があるのだ。
典道の小便は、放尿にしか使われない少年のオチンチン=未成熟を暗喩し、皆で揃っての立ち小便は友情の絆である。
アニメ版のウンコは、演出意図のない小学生レベルの下ネタでしかない。


駅のトイレでワンピースに着替えるなずな。
「16才に見える?」と訊くが、何も変わっているように見えない。
これは、アニメ表現の限界である。
内面から湧き出る、少女から妖女への変化が表現できない。
原作のシーンは、13才の奥菜恵という最高の素材の輝きで成立しているのだ。

なずなはビッチな母親の娘であることを自覚し、年上に見られたいのだから、原作のように黒のワンピースを選ぶべきだ。
その後の『瑠璃色の地球』シーンで、松田聖子っぽい白いワンピースに変化する方が、より幻想的ではないか。
あまりに類型的なお姫様願望も、少しは現代風にするべきだろう。


キラキラ描写に偏重したアニメーションは、人物それぞれの仕種に人格が宿っていない。
その画に芸能人キャストの「味わい」を乗せても、違和感を感じる観客が多いのは仕方ない。

詳細評価

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音楽

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