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紅い襷 ~富岡製糸場物語~ (2017)

監督
足立内仁章
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3.32 / 評価:31件

旧富岡製糸場の社会科見学のようだった

  • rah******** さん
  • 2018年1月13日 20時34分
  • 役立ち度 1
    • 総合評価
    • ★★★★★

富岡製糸場は、1872年、群馬県富岡市に官営模範工場として誕生。(2014年に世界遺産となる。)
映画は、日本近代化を支え、生糸生産(製糸)に携わった工女たちを描く。
全国から製糸場に集った若い工女たちは、フランス人教師の厳しい指導を受けた。
身分による差別、容易ではない糸取り作業、長州藩の優遇などの問題があった。
工女たちは、紅い襷の一等工女となり、故郷に戻って製糸業の指導者となることを目指した。
和田英(横田英)は1年半で、一等工女となり故郷に戻った。
映画は、旧富岡製糸場の社会科見学のようだった。
(1)
江戸時代、開国(1858年日米修好通商条約)直後、日本の生糸、蚕種、茶の輸出が急速に伸びた。
生糸の輸出拡大の背景:
(1)ヨーロッパの生糸の生産地であるフランス、イタリアで蚕の病気が大流行し養蚕業が壊滅的な打撃。
(2)太平天国の乱(1851-64)で清の生糸輸出が振るわなくなった。
その結果、1862年には日本からの輸出品の86%を生糸と蚕種が占めた。
(2)
(ア)急激な需要の増大は粗製濫造を招き、日本の生糸の国際的評価が低落。
(イ)イタリアの製糸業の回復が、日本にとって向かい風となった。
かくて、日本製生糸の価格は1868年から下落に転じる。
(3)
明治政府には、外国商人などから器械製糸場建設の要望が出されていた。
政府内では外国資本を入れず、国策として器械製糸工場を建設すべきという意見が出て、1870年器械製糸の官営模範工場建設決定。
大隈重信、伊藤博文と渋沢栄一は官営の器械製糸場建設のため、お雇い外国人としてポール・ブリューナを首長に決める。
また渋沢栄一は、場長を尾高惇忠に依頼。
(4)
ブリューナは、尾高惇忠らを伴い、製糸場建設予定地を選定し、富岡を建設地と決めた。
(1)周辺で養蚕業がさかんで繭の調達が容易。
(2)建設予定地周辺は土質が悪く、農業には不向き。
(3)水や石炭など製糸に必要な資源の調達可能。
(4)全町民が建設に同意。
(5)代官屋敷の建設予定地が公有地として利用可能。
(5)
ブリューナは、1871年、横須賀製鉄所のお雇い外国人E. A. バスチャンに依頼し、設計図を作成させた。
ブリューナは設計図の完成を踏まえ、器械購入と技術者雇用のためにフランスに一時帰国(1871年)。建設予定地調査の折に、在来の手法で糸を繰らせ、日本的な特徴を把握し、製糸場用の器械を特別注文した。
他方で、尾高惇忠が、日本側責任者となり資材の調達に着手し、1871年中に着工。
なお、レンガはまだ一般的な建材ではなく、瓦職人に焼かせた。
(6)
建設と並行し、1872年、政府から工女募集の布達。
しかし、「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの噂話が広まり、思うように集まらない。
このような状況の中、尾高惇忠は、噂を払拭する狙いで娘の勇(ユウ)を最初の工女として入場させる。
(7)
富岡製糸場は、1872年11月に官営模範工場として操業を開始。
当初は工女不足から210人あまりの工女で全体の半分の繰糸器を使って操業。
1873年4月、工女は556人で、主に旧士族などの娘だった。
4月入場者には『富岡日記』で知られる和田英(横田英)がいた。
(8)
製糸場の中心をなす繰糸所は繰糸器300釜を擁し、フランスやイタリアの製糸工場でも繰糸器は150釜程度が一般的だったので、世界最大級だった。
工女たちの労働環境は充実していた。七曜制、日曜休み、年末年始と夏期の10日ずつの休暇、1日8時間程度の労働で、食費・寮費・医療費は製糸場持ち、制服も貸与。
(9)
工女は熟練度によって等級に分けられた。開業当初は一等から三等および等外。
(1873年には、等外上等および一等から七等の8階級に変わる。)
工女たちは、フランス人教婦から製糸技術を学ぶ。満期(1年から3年)。
(10)
1873年には尾高勇ら一等工女の手になる生糸がウィーン万国博覧会で「二等進歩賞牌」を受賞。
これは開業間もない富岡製糸場の評価を高め、リヨンやミラノの絹織物に富岡製の生糸が使われることになった。
(11)
工女たちは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割を果たす。
和田英は、1874年7月に帰郷し、民営の西条製糸場(のちの六工社)で指導に当たった。
(12)
初期の富岡製糸場は、初代場長尾高惇忠、首長ポール・ブリューナを中心に運営されたが、お雇い外国人たちに支払う高額の俸給、さらに官営の非効率さなどの理由から大幅な赤字が続く。
ブリューナとフランス人医師が去り1875年12月31日をもって、富岡製糸場のお雇い外国人は一人もいなくなる。
日本人のみの経営となった最初の年度、明治9年度(1976年)には大幅な黒字に転じる。
(1)お雇い外国人への支出がなくなった。
(2)所長の尾高の大胆な繭の思惑買いが奏功した。
しかし、尾高は、1876年11月に所長を退いた。

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