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ある少年の告白 (2018)

BOY ERASED

監督
ジョエル・エドガートン
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3.44 / 評価:313件

対話こそがあらゆる素養の理解の礎

  • dr.hawk さん
  • 2019年4月21日 3時06分
  • 閲覧数 865
  • 役立ち度 8
    • 総合評価
    • ★★★★★

2019.4.20 字幕 TOHOシネマズ二条


2018年のアメリカ映画
原作はガラルド・コンリー著作『Boy Erased A Memoir of Identity, Faith, and Family』
LGBTQ+に目覚めた青年がコンバージョン・セラピーに参加する中で起きた苦悩と葛藤を描いた自伝的ヒューマンドラマ
監督&脚本はジョエル・エドガートン


物語は主人公ジャレッド・イーモンズ(ルーカス・ヘッジズ)の日常が描かれて始まる

彼はバプティスト教会の牧師である父マーシャル(ラッセル・クロウ)とその妻ナンシー(ニコール・キッドマン)の一人息子である

高校時代に恋人ができ、幸せな学生生活を送っていたが、なぜか彼女との関係を進められずにいた

時を経て大学に進学した彼は、ヘンリー(ジョー・アルウィン)という体育会系の男性と出会う

意気投合したふたりだったが、ある夜ジャレッドはヘンリーから性的暴行を受けてしまう


この事件とヘンリーの告発によって、ジャレッドは「コンバージョン・セラピー」に参加させられることになる

ちなみにこのセラピーは教会主導で行われ、転向療法と呼ばれるものである

転向療法とは、心理的または精神的介入を用いて個人の性的指向を変更しようとする疑似科学的な試みのことを指す
欧米の医学会をはじめとして、潜在的に有害とされている療法であり、2001年にはデイビッド・サッチャー博士によって「性的指向を変えることができる科学的根拠はない」と発表されている

コンバージョン・セラピーでは、LGBTQ+を精神疾患と見なし、人間としての脱構築、イメージ通りの再構築という経過でプログラムは行われる

過去には体罰を含む拷問、外科的手術、ショック療法なども採用されていたという


この映画では、そのセラピーの怖さよりも「親子関係の闇」が主題として描かれている

ジャレッドの父は牧師という立場上、彼の告白を受容できない

思想、信念も違うのであるが、それ以上にジャレッドが心を痛めたのは「性的暴行被害よりも性的指向の相違の方が問題が大きい」と考えていることである

根源的な志向の相違は、立場を危め、嫌悪感を主体とした感情によって発露する
父には宗教家としての立場と同様に、同じ男性として生まれたのにも関わらずそうしてその選択に至ったのかという苦悩があった

映画では描かれないが、息子がそのように育った責任感を感じているだろうし、宗教家としての信念の弱さを痛感したようにも思える

この辺りをじっくり描いていれば、後半の和解はわかりやすいのだが、少しばかりコンバーション・セラピーへの傾倒が強かったかなと感じた


プログラムでは性的指向が先天的か後天的かという命題が提示され、議論もないまま「後天的選択」であると規定される

その前提をもって、その矯正に踏み込むのだが、その手法がほぼ「洗脳」であることは明白である

家系図を書かせ、自分に性的指向の原因をルーツに見つけさせる

その後、自分のエピソードを言語化させ、肉親を嫌うように仕向けられる

そして最後には、その肉親たちによって「内なる悪魔から解放」を行わせる

この過程において、キャメロン(ブリットン・セアー)は傷つき、自殺を選んでしまう


自尊心を傷つけさせて、ルーツを蔑ろにすることで、自我の脱構築を行う

その後、脱構築を果たしたことを賞賛し(映画では描かれない)、新しい自我を受け入れさせるというのは、洗脳において常套手段である
(ちなみに個人的な話で申し訳ないが、洗脳系セミナーに強制参加させられた体験がある。最後は親しい人が現れて拍手喝采みたいな儀式があった)


この映画はコンバージョン・セラピーを盲信する親の無知を描いているのだが、これはこのセラピーに限った話ではない

どの家庭でも行われているもので、題材がLGBTQ+になっている分センセーショナルになっている

保護者の思想信条に基づいて行われる家庭教育
学校教育でも同じように「管理」と「情報統制」の元、画一的な教育を植え付ける

一度に大勢を見る教育ではある程度の画一化はやむを得ないが、問題は家庭教育においても同じように行われることである

家庭教育は学校教育の反芻の場であり、その教育が社会とどう繋がりがあるのかを深める場でもあるはずだからだ


いずれにせよ、それぞれの価値観はすべて後天的に見えるし、選択の結果であると言えるだろう

だがすべての選択が理性をもって行われるかといえばNOである

その選択は潜在意識下にある素養が決め、それは魂の居心地の良さを求める衝動と同じである

同じ選択を迫られて「あなたは選ばなかったが私は選んだ」という分岐はいくらでもある

問題は「自分と違った選択をした相手」をどう見るか、である

どのような相違も「相手を病気扱い」などしない
この歪さが宗教的な由来であるのは、それが宗教の限界であることを示しているのではないかと感じた

詳細評価

物語
配役
演出
映像
音楽

イメージワード

  • 不気味
  • 恐怖
  • 知的
  • 切ない
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