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ONODA 一万夜を越えて
2021年10月8日公開

ONODA 一万夜を越えて

ONODA/ONODA, 10 000 NUITS DANS LA JUNGLE/ONODA: 10,000 NIGHTS IN THE JUNGLE

1742021年10月8日公開

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2.0

仏人監督の意図が成功したとは思えない

「小野田寛郎の終わらない戦い」 「たった一人の30年戦争」 上記2冊を読み、小野田さんと発見者の鈴木君には以前から興味を持っていました。それぞれに日本の社会にフィットしない男二人がルバング島で出会い、年の差を越えた友情で結ばれ、その後二人とも数奇な運命をたどる話は壮大で複雑な物語です。 では本作はどうか。 ただ淡々とエピソードを紹介するだけで、登場人物達の内面に肉薄することはありません。サバイバル生活の工夫や苦労や細部にも深入りしません。表面的で浅い、のっぺりとした冗長な映画、それが正直な感想です。本の方が何倍も面白く感じました。 フランス人監督アラリさんの制作意図はなんなのか。 数本のインタビュー記事を読んでみましたが、よく分かりませんでした。 「いいおじさん」にしか見えないイッセー尾形はミスキャストではないでしょうか。あと、独特な音楽も画に合っているとは思えませんでした。 ※ 以下はインタビュー記事からの抜粋です。 【アラリ監督の言葉】 当初は冒険映画を撮りたいと考えて、スティーブンソンの『宝島』のような話を探していたんです。でも良い題材がないかと思っていたら、父が小野田さんの話をしてくれました。 日本人、太平洋戦争といった視点を抜きに、人間・小野田を感じてほしい。 小野田少尉は、たった一人になっても『まだ任務は終わっていない』という内なる声に従って生きた。国や時代を超えて、心に訴える人間性。それを描こうと決めた。 三十年間も潜伏できたのは、日本人だからではない。小野田だから。その特異性には誰もが感じる普遍性がある。 彼の中で何が起きていたか、どうしてこんなことが可能だったかと考えてみると、これは日本の昔ながらの「サムライ」とか「軍隊」にある精神性とか、何か大きな普遍的なものを感じたんです。 小野田さんの物語を描きたいということもあったけれど、その先にある国や文化を越えた物語、人間とは何か、人間性の根幹に関わる普遍的なものを描きたかった。 本来、命令に対しての誠実さとか、忠誠心とか、尽くす気持ちというのはポジティブな精神もとづく行動のはずです。しかし、任務とはいえ、それを果たすことで、小野田さんは殺人者や強奪者にもなってしまう。そういう小野田さんの気持ちは、「曖昧さ」に満ちていると感じました。 彼の人生は驚異的で、ほかの人にはほとんど実現不可能と言えるものでした。表向きにはシンプルな物語に見え、その裏には複雑さが横たわっています。彼は神話の形を本当に生きたような男性なのです。 場面を想像して、創作した。事実を描き写すのではなく、ドラマとしての演出だ。 ドキュメンタリーのように全てが史実に基づいているわけではないけれど、小野田さんに指先で触れるような形でこの映画を撮りたいと思った。 私にとってこの作品は、日本人に見てもらうことが重要なんだ。映画を見ている間、フランス人監督の作品だということを忘れてくれれば、こんなにうれしいことはない。 小野田さんは日本人にとって「誇りと恥」「賞賛と滑稽さ」など、相反する感情を同時に引き出す存在かもしれません。そうであるなら、文化的に一歩引いた私のような自由な立場の人間が語った方が良いと感じました。 【青年期の小野田を演じた遠藤雄弥の言葉】 カンボジアのカンポットという町に滞在したんですが、居心地のいいコーヒー屋さんを見つけて、休日は松浦さんたちと一緒にそこでリラックスしていました。当初は「野営を組んで休みの日もみんなでそこで暮らそうぜ」と意気込んでいましたが、撮影中も週休2日とされていたので「……これは違うな」と(笑)。休みはちゃんと休みました。 【壮年期の小野田を演じた津田寛治の言葉】 驚いたことに、この作品の現場ではスタッフもキャストも同じ温かい食事を一緒に食べるんです。なんと、撮影も週休2日制なんです!そして、撮影現場に子供や家族も連れてきていて、2週間ごとに家族を交えて撮影現場でパーティをしているんですよ。楽しいじゃないですか。 小野田さんは、「戦争」「皇国」というフィクションに人生を捧げ、棒に振りました。 帰国し毀誉褒貶にさらされた彼は、「身体的な体験や感覚を伴うことなく、頭の中だけでものを考え、わかったふりをする」、そういう戦後世代のわれわれのあり方を痛烈に批判しました。 リアルとフィクションの間で翻弄されたのが彼の前半生であり、われわれをリアルの側に引き戻したい、それが彼の戦後の生き方だったのではないでしょうか。 映画というフィクションで彼を捉えることができないのは、彼があらゆるフィクションを嫌っていたからです。 彼が戦争に行ったのも、戦争から帰ってこなかったのも、戦後日本を離れたのもすべて、彼を取り巻くフィクションに嫌気がさしていたからではなかったでしょうか。

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