テイラー・ウォンの独自性
- lamlam_pachanga さん
- 2010年7月15日 0時09分
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私は香港ノワールの大ファンですが、どうにも相容れない監督がひとり。それが本作のテイラー・ウォン。
ショウ・ブラザースの職人監督だった彼は、80年代半ばに香港ノワールが隆盛すると、チョウ・ユンファ主演で『愛と復讐の挽歌・野望編』と『愛と復讐の挽歌』(元々は一本の映画。謂わば『キル・ビル』方式)を発表し、一躍、香港ノワールの旗手として名乗りを挙げます。
でも、私はこの人の映画が、何故だか好きになれなかった。
私には、香港ノワールとは「幼稚な英雄譚」であるとの認識があります。例えば、ジョン・ウー、リンゴ・ラム、ジョニー・トーたちの映画には、押し並べて「幼児性」が感じられます。彼らの映画に登場するキャラたちは、社会通念上は決して認められない自己正義を押し通す者として描かれます。己の美学を優先し、社会のルールを飛び越えていく「幼稚な侠気」こそが、香港ノワールのキャラに求められる不文律であると思うのです。
翻ってテイラー・ウォンの映画はこの部分が著しく弱い。その描写は極めて「通俗的」です。香港ノワールの本義とも言える「美学の追求」がなされていないことに、どうしても不満を覚えてしまいます。
この『新・愛と復讐の挽歌』は、香港ノワールとラブストーリーを足して2で割った様な映画(『愛と復讐の挽歌』とは何の関係もない)。先にテイラー・ウォンの特徴を「通俗的」と記しましたが、その特徴がよく出ている映画だと思います。
ひとりの情婦を巡る、警官と殺し屋の物語。
この映画の本筋についてこれ以上の説明は不要だと思います(途中、本筋とは関係のない話を延々と見せられますが)。映画を評す時に、よく「濃い(深い)」とか「薄い(浅い)」とか言われますが、その二者択一論で評せばこの映画は圧倒的に後者でしょう(笑)『男たちの挽歌』や『友は風の彼方に』等、香港ノワールの名作と呼ばれる映画で味わえる余韻は、この映画には求めるべくもありません。
しかし、一方ではその「浅い演出」が利いている映画とも言えます。
それがテイラー・ウォンの意図したものではないでしょうし、十中八九、偶然だと思いますが、結果的に彼の「通俗的な描写」がこの映画全体のトーンを決定付けていることは否定出来ず、その演出はこのストーリーならば決して見当違いではありません。
ストーリーにしろ、キャラクターにしろ、それ自体は何ら魅力のあるものではないのですが(ハッキリ言ってしまえば陳腐)、全体のトーンをそれで統一してしまったからこそ独特の雰囲気を醸し出すことに成功していると言う、何とも妙な映画になっています。
俳優陣は気の毒と言うしかありません。陳腐な脚本を魅力的に演じるのは、どんな名優にも無理な相談です。警官役のレオン・ライはキザな仕草を繰り返すばかりで、情婦役のロザムンド・クワンも魅力的には映りません。唯一、その奇蹟的な仕事をやってのけたのは、殺し屋を演じたジャッキー・チュン。ほとんど狂犬の様なこの殺し屋を、先のふたりと比べて圧倒的に出番が少ない(冒頭と終盤のみ)にも係わらず、映画全体を支配する様な存在感で演じ切っています(そのせいか続編の『殺しの掟』では彼が主役となる)。
先に言いましたが、私はテイラー・ウォンの「通俗性」が好きではありません。それとイコールで結ぶのは短絡的でも、彼の映画にしばしば感じられる「低俗さ」に反発している面も間違いなくあります。この『新・愛と復讐の挽歌』にしても例外ではありません。
但し、評価すべき点はあります。
香港ノワールと言うジャンルは、良いも悪いも最初に登場した二作(『男たちの挽歌』と『友は風の彼方に』)に大きく影響されています(後発作品で独自色を打ち出せたのはジョニー・トーくらい)。
ならば、例え「通俗的」ではあったにせよ、先の二作にはない要素を香港ノワールに持ち込んだと言う点は評価されるべきでしょう。結局、それこそがテイラー・ウォンの独自性と言えるもので、少なくともあの当時(80年代)にそれを成しえたのは彼しかいなかったわけですから。
最も、だから彼の映画を好きになれるわけではないし、それでこの映画を面白いと言えるわけでもないのですが。
でも、もしもあなたが香港ノワールのファンであるなら、私はこの映画を薦めてみたいと思います。
こんな香港ノワールもありますよ、と言う意味で。
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