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激戦モンテカシノ (1958)

DIE GRUNEN TEUFEL VON MONTE CASINO/LES DIABLES CERTS DE MONTE CASINO/BATTLE OF MONTE CASINO

監督
ハラルト・ラインル
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単一目標に対する最大の爆撃

英豪印師団の司令官であったニュージーランド人のフレイバーグ将軍はクレタ島攻防の経験からドイツ降下猟兵の卓越した戦闘振りを身に沁みて知っていた。 この将軍はモンテ・カッシーノ山頂のベネディクト派修道院がドイツ軍の要塞兼砲撃観測哨に違いないと主張し、あろうことかこの歴史的遺産に対して、米軍による空爆を要請したのである。 第100大隊がモンテ・カリバリオからの撤収を終えた3日後の2月15日に空爆は行われた。 229機のB-17が飛来し、モンテ・カッシーノ修道院とその周辺になんと600トンもの爆弾を投下したのである。第二次大戦中、単一目標に対する最大の爆撃であった。空爆に続いては連合軍の砲兵部隊からカッシーノ市街に向けて8時間にも亘る凄まじい砲撃が行われた。カッシーノ市街に撃ち込まれた砲弾は20万発にも及ぶという凄まじさであった。 この砲爆撃により、約1000年の歴史を持つ貴重な文化遺産であるベネディクト派修道院は、その内蔵する絵画・文献等の膨大な歴史的遺産とともに跡形もなく破壊されてしまったのである。 因みに今モンテ・カッシーノに現存する修道院は戦後に復元されたものである。
連合軍の推測とは異なり、ドイツ軍はモンテ・カッシーノ山頂の修道院に部隊を配置していなかった。その地域の独軍司令官は部隊の修道院使用を禁止したのみならず、修道院には野戦憲兵を配してドイツ兵がこの歴史遺産に接近することなきよう監視さえしていたのである。更に、戦後ドイツ軍指揮官の主張によると、戦術セオリーから見ても、容易に攻撃の目標になるようなランド・マークに監視哨を置くことは有り得ないとしている。
皮肉なことに、連合軍の爆撃時には修道院に存在しなかったドイツ軍部隊は、歴史的遺産が存在しなくなった後に修道院跡地に入っている。修道院の跡地には何世紀もの間に作られた地下室や地下礼拝堂が存在し、格好の防空豪・掩蔽豪となったのである。 この歴史的建造物への対応はドイツ軍側が矜持を持って対応したのに対し、連合軍の対応はまさに神をも畏れぬ「暴挙」であったと言わざるを得ない。

しかもこの凄まじい砲爆撃にも拘わらず、ドイツ軍部隊は壊滅していなかった。 第100大隊の後をモンテ・カリバリオに取付いた勇猛グルカ連隊も、ニュージーランド師団兵も、神出鬼没のシュルツ戦闘群の降下猟兵との激闘の末に敗退してしまい、結局連合軍の第二次総攻撃も失敗に終るのである。
その後損耗激しかった連合軍が悪天候を機に攻勢を一次的に中断した際に、ケッセルリンク元帥は素早く第10軍の再編成を行っている。第1降下猟兵師団がカッシーノ戦区ほぼ全域を受け持つことになり、戦区防衛の主力であった第90装甲擲弾兵師団や第44ホッホ・ドイチェマイスター歩兵師団などは後方に退いた。第1降下猟兵連隊は稜線を、第3降下猟兵連隊はカッシーノ市街、第4降下猟兵連隊はモンテ・カルバリオに布陣した。連合軍は損耗しながらも次々と精強部隊を繰り出してドイツ降下猟兵部隊と凄まじい戦闘を繰り返すのだが、独軍部隊の戦意は衰えなかった。まだ連合軍のノルマンディー進攻前の西部戦線に圧迫の無い時点であったからか、物量に劣るとはいえ、ドイツ軍のイタリアにおける踏ん張りは見事という他ない。連合軍はカッシーノ戦区に対し引き続き猛空爆と地上砲火を浴びせ、グルカ連隊によるインド師団、マオリ族によるニュージーランド師団など勇猛師団を繰り出し、カッシーノ市街はあたかも第一次世界大戦時のような酸鼻を極めた壮絶な消耗戦となった。モンテ・カッシーノ山頂の修道院跡地もポーランド師団と降下猟兵の陣地取り合戦となり双方が消耗し、膨大な戦死者を出していた。
こうしてカッシーノ戦はなんと5月中旬まで続くのであるが、ついにその激戦に幕を引く時が来た。連合軍の戦線が次々と拡張し、もう少しでドイツ軍を完全包囲する状態まで至った時点でケッセルリンク元帥は奮戦した精鋭降下猟兵部隊の孤立を回避すべくカッシーノ戦区からの撤退を命じた。 1944年5月18日のことであった。

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