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荒野の決闘 (1946)

MY DARLING CLEMENTINE

監督
ジョン・フォード
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3.87 / 評価:126件

フォードのヒューマニズム

  • bar***** さん
  • 2018年8月24日 15時40分
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    • 総合評価
    • ★★★★★

荒野の決闘。ずっと前から見たかった作品でした。ジョン・フォード監督の作品はいくつか見たことがありますが、まさしく正統派といったイメージが思い浮かばれます。

久しく正統派の作品は作られなくなってしまいました。「お決まり」や「王道」や「定番」の作品は捨てるほどありますが、私が今フォード作品に対して感じている「正統派」という意味合いとはまったく違った言葉であります。

なんと言えばいいのか、言葉にはしにくいのですが、フォード作品は叙情性のある古典的作風であり、それが極めて高度なレベルで調和されていると思います。そして、各キャラクターも昔ながらの素朴なキャラクターであり、それがなおかつ破綻していない。私は思うのですが、これは非常に難度の高い技術だと思われます。古典的とは、単純に古くさいということではありませんし、単純に洗練されてないということでもない、もっと重要な意味合いが込められています。

それは、時間が経っても色褪せないような、品性の高さ、人間の美しさが表現されているということです。これは「王道」や「定番」などといわれる凡百の作品では決して見られないものです。それらは得てして、表面だけ定式の形を真似てはいるものの、どこかに「ズレ」があり、それが調和を崩してしまいます。そしてそのほとんどの作品はこの「品性の高さ、人間の美しさ」を表現するときに失敗をしてしまいます。

なぜなら、それらは容易に表現できるものではないからです。凡作は必ずどこか安易な表現に走ってしまい、安直な結論を出したり、極めて表面的な人間性で満足したり、問題性を隠したりしてしまいます(答えられる能力がないからなかったことにしてしまうのです)。そして必ずキャラクターはどこか穿った見方をするようになります。自分に自信がないからです。この映画のように、しっかりと地に足がついたような態度を取ることができません。それは表現者に裏打ちする精神が存在しないからです。劣った精神しか自由に動かせないからです。だから劣った作品は、奇抜な、人格的装飾のある、不自然な、コミック的なキャラクターを生み出し、機械のように操るのです。

フォード作品が正統派であるという意味の重要性はそこにあります。

またフォードのヒューマニズムは筋書きのみによっては表現されていません。「どんな事件が起こったか」「どんな恋愛模様があったか」などといった表面的感覚では捉えきれないのです。それは登場人物の表情や身振り、衣装や姿勢、歩き方、セリフを発するときの間などに現れています。その一つ一つの材料がそれぞれ言葉にならない奥行きを生み出して、私たちに真の味わいを教えてくれるのです。それがフォード映画の素晴らしさです。

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