5.0点
ネタバレ「はぐらかし」
ブニュエル監督の映画は、これがはじめて。 楽しい。 が、ちょっと戸惑う。 この映画は、ジャンヌ・モローの魅力に尽きている。 だから、テーマは、彼女の魅力を最大限に引き出すことにあると思う。 ジャンヌ・モローのための、ハイセンスな艶笑コントと考えるのが、いちばん妥当な気がする。 性的な猥雑さや危険な匂いを漂わせているように見せかけて、実際は、あっけらかんとした遊びの映画だと思う。 ブニュエル監督は、とても知的で、バランス感覚の優れた監督だと思う。 筋の通ったシリアスドラマなど、はじめから作る気がない。 物語をシリアスな方向へもっていくと見せかけて、それを必ずうやむやにしてしまう。 むしろ、その点にこそ、ブニュエル監督の、尖鋭な問題意識があるような気がする。 性的なお膳立ては、いずれも映画的な道具として使われている。 通常、性的異常と呼ばれるもののほとんどは、もともと異常でも何でもない、ちょっと変わった欲望程度のものだ。 それを、逆手にとって、遊んだ映画だと思う。 ブニュエル監督は、そうすることによって、性をめぐる、何やら意味ありげな現代的神話を、ことごとく粉砕してしまった。 たとえば、老主人の、靴および足フェティシズムは、異常だろうか。 ハイヒールや女性のすらっとした足を見て、美しさを感じない人のほうが、どうかしている。それをフェティシズムと呼ぼうが呼ぶまいが、ハイヒールや女性の足の美しさに、何も変わりはない。 ブニュエル監督の目的は、ジャンヌ・モローの脚線美を描くことにあって、何も異常なんか描こうとしていない。 そもそも、性的フェティシズムのほとんどが、個人的趣味の問題だ。少しも精神医学的な問題ではない。しょせん、経済学からの借り物用語だ。 女性の足や靴に、性的に興奮したり、美しいと感じるのは、人間の感覚としてごく自然だ。 足のきれいな女性が、ハイヒールを好んで履こうとし、それを見て、男性であれ女性であれ、人が美しいと感じるのは、いずれもごく素直な美的感覚だ。 この映画には、4人の男が登場する。 老主人、その息子、下男、退役大尉。 いずれも、セレスティーヌの魅力のとりこになる。 それは、彼らが淫蕩だからではなく、男として、正常な性的欲望をもっているからだ。 彼らは、セレスティーヌの魅力を讃える、応援団みたいなものだ。 そもそも、典型的なパリジャンといっていいセレスティーヌが、なぜ田舎ブルジョワのメイドになる必要があるか。都会生活に飽きた、というのが、設定上の理由付けだ。しかし、生活に困窮しているようには、見えない。 とすれば、セレスティーヌを、田舎のちょっと変わったブルジョワ屋敷のメイドにすることが主であって、男たちは、その道具にすぎない。 もともと、ブニュエル監督は、人間ドラマを描く気など、これっぽっちもない。 なぜなら、そんなものは、ないからだ。 ブニュエル監督が立っている場所は、人間ドラマが崩壊した後の世界だ。 そのことがはっきりと分かるのは、セレスティーヌがいったん退職して、殺された少女クレールの犯人摘発のため、再度屋敷に戻ってきてからの行動だ。 セレスティーヌは、番人のジョゼフに惹かれながら、そのジョゼフを告発しようとする。あるいは、犯行を確認するため、ジョゼフに近づく。 しかも、その告発は、証拠不十分で、不起訴になる。 わざわざジョゼフを告発するため屋敷に戻り、裁判所にまで足を運びながら、セレスティーヌの行動には、あまり熱意が感じられない。どこか投げやりなところさえある。 本来なら、典型的なサスペンスドラマの展開になるはずなのに、ブニュエル監督は、期待されるスリリングな展開をなし崩しにしてしまう。 その極めつけが、愛してもいない隣家の退役大尉との結婚だ。 セレスティーヌは、ドラマ的にはありえないが、現実的には最もあり得る、経済的安定を選択する。 もし結婚がうまくいかなければ、前の愛人ローズと同じように、取れるだけ取って、別れればいい。 こうした彼女の一連の行動と選択は、人間ドラマから最も遠い、完全に冷めたリアリズムだ。それは、ロマンティシズムの否定だ。 セレスティーヌは、愛を信じていない。近代的な愛の神話を信じていない。 セレスティーヌは、いろんな意味で、燃えない。一種の不感症だと思う。 その意味で、この映画で最も正常から遠いのは、4人の男たちではなく、じつは、セレスティーヌ自身だ。 セレスティーヌの不感症は、少し深読みすれば、存在そのものに対する不感症だ。 この映画に、ブニュエル監督の思想的意図があるとすれば、あれこれの性的レトリックにあるのではなく、彼女の不感症そのものにあると思う。